太田裕美
via d.hatena.ne.jp
太田裕美 木綿のハンカチーフ - YouTube
via www.youtube.com
山下久美子
過激なライブパフォーマンスにより“総立ちの久美子”の異名を得た「山下久美子」
1980年に日本コロムビア(BLOW UPレーベル)よりシングル「バスルームから愛をこめて」でデビュー。
1982年 - シングル「赤道小町ドキッ」がヒットし、過激なライブパフォーマンスにより「総立ちの久美子」の異名を得る。
1985年に当時BOØWYのギタリストであった布袋寅泰と結婚。布袋の作曲した楽曲を多数リリースするが、1997年に離婚。
1982年 - シングル「赤道小町ドキッ」がヒットし、過激なライブパフォーマンスにより「総立ちの久美子」の異名を得る。
1985年に当時BOØWYのギタリストであった布袋寅泰と結婚。布袋の作曲した楽曲を多数リリースするが、1997年に離婚。
via blogs.c.yimg.jp
山下久美子 - So Young (Live 1988) - YouTube
1988年、東京ベイNKホールでのライブ映像。
via www.youtube.com
白井貴子
“総立ちの貴子”と呼ばれた学園祭クイーン「白井貴子」
1981年、CBSソニーレコードの主催するオーディションに合格し女性ヴォーカリストとしてデビュー。
その後、ロックバンド『白井貴子 & CRAZYBOYS』を結成し、自身の居場所をポピュラー音楽からロックミュージックへと移すが(こうした転身は先駆的)、この時代、音楽業界からは「女にロックは解らない」と冷淡な扱いしかされなかった。そんな周りの反応を吹き飛ばすかのように、ライブが始まると同時に観客が総立ちになる現象から当時は「総立ちの貴子」と呼ばれ学園祭クイーンにもなった。
その後、ロックバンド『白井貴子 & CRAZYBOYS』を結成し、自身の居場所をポピュラー音楽からロックミュージックへと移すが(こうした転身は先駆的)、この時代、音楽業界からは「女にロックは解らない」と冷淡な扱いしかされなかった。そんな周りの反応を吹き飛ばすかのように、ライブが始まると同時に観客が総立ちになる現象から当時は「総立ちの貴子」と呼ばれ学園祭クイーンにもなった。
白井貴子 Chance!.mpg - YouTube
1985年、札幌市民会館でのライブ映像。
学園祭での盛り上がりを想像できるパワフルなステージ♪
学園祭での盛り上がりを想像できるパワフルなステージ♪
via www.youtube.com
浜田麻里
“ヘヴィメタル・クイーン”“学園祭の女王”と呼ばれていた「浜田麻里」
中学生の頃からコマーシャルソングの収録に参加していた。都立武蔵丘高校入学後はパンクロックバンド『麻里バンド』を結成、後に青山学院大学文学部に進学し『Misty Cats』のヴォーカルとして活動。
1983年、糸井重里による『麻里ちゃんは、ヘビーメタル。』というキャッチコピーとともにメジャーデビュー。1980年代に女性ロックヴォーカリストの旗手として注目を集め、当時のハードロックジャンルとしては異例とも言えるアルバム売り上げを誇っており、「ヘヴィメタル・クイーン」の異名を取った。
1985年には初のシングル「Blue Revolution」を発表、この頃からすでにセルフ・プロデュースをするようになり、全国ライブツアーも精力的に行うようになった。
1983年、糸井重里による『麻里ちゃんは、ヘビーメタル。』というキャッチコピーとともにメジャーデビュー。1980年代に女性ロックヴォーカリストの旗手として注目を集め、当時のハードロックジャンルとしては異例とも言えるアルバム売り上げを誇っており、「ヘヴィメタル・クイーン」の異名を取った。
1985年には初のシングル「Blue Revolution」を発表、この頃からすでにセルフ・プロデュースをするようになり、全国ライブツアーも精力的に行うようになった。
Mari Hamada - Misty Lady - YouTube
via www.youtube.com
川島なお美
女子大生アイドルとして人気で“学園祭の女王”と呼ばれた「川島なお美」
大学在学中に芸能界にデビュー。
文化放送がセイ!ヤングの後番組として、1981年10月からスタートさせたミスDJリクエストパレードの初代DJに抜擢され、これにより深夜の顔となる。
当時大学在学中であり、女子大生DJと呼ばれたのもこの頃である。
文化放送がセイ!ヤングの後番組として、1981年10月からスタートさせたミスDJリクエストパレードの初代DJに抜擢され、これにより深夜の顔となる。
当時大学在学中であり、女子大生DJと呼ばれたのもこの頃である。
via blogs.c.yimg.jp
川島なお美 Ash Wednesday 001 - YouTube
via www.youtube.com
森川美穂
アイドル→ロックを基調としたアーティスト路線に変更し、“学園祭の女王”と呼ばれるようになった「森川美穂」
1983年、ヤマハボーカルオーディション「ザ・デビュー」(現「MUSIC REVOLUTION」)にて約1万人の中からグランプリを受賞。
1985年(昭和60年)7月21日、シングル「教室」で、アイドル歌手としてデビュー。同期には本田美奈子、中山美穂、南野陽子、浅香唯など。のちにトップアイドルになる華々しい顔ぶれと並んでのデビューだった。
1987年(昭和62年)、飛鳥涼作詞作曲のシングル「おんなになあれ」、シングル「PRIDE」がヒット。この2曲を機にロックを基調としたアーティスト路線に変更し、この頃には「学園祭の女王」と呼ばれるようになる。
1985年(昭和60年)7月21日、シングル「教室」で、アイドル歌手としてデビュー。同期には本田美奈子、中山美穂、南野陽子、浅香唯など。のちにトップアイドルになる華々しい顔ぶれと並んでのデビューだった。
1987年(昭和62年)、飛鳥涼作詞作曲のシングル「おんなになあれ」、シングル「PRIDE」がヒット。この2曲を機にロックを基調としたアーティスト路線に変更し、この頃には「学園祭の女王」と呼ばれるようになる。
森川美穂_BE FREE 1988 CLUB CITTA'川崎コンサート6/6 - YouTube
1988年、CLUB CITTA'川崎でのライプ映像。
via www.youtube.com
1975年12月に3作目のアルバム『心が風邪をひいた日』からシングルカットされた「木綿のハンカチーフ」が大ヒット。
学生に絶大な人気を誇り、渡辺プロ公式ファンクラブができるより早く、東京大学で太田裕美ファンクラブが結成された。
いわゆる『学園祭の女王』という称号を得た最初の歌手とも言われている。