沢田研二とは
出生は鳥取県鳥取市で京都府京都市育ち。
妻は女優の田中裕子。前妻は元ザ・ピーナッツの伊藤エミ。
1960年代後半のグループサウンズ全盛期から活躍し、
特に1970年代から1980年代前半にかけてはスーパースターとして日本のポップス界を牽引した。
ソロとしてのシングル総売上は1,239万枚(1982 - 1991年の9年間は歴代1位の座を保つ)。
ザ・タイガース、PYG時代を含めると1,666万枚になる。
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【ザ・タイガース期】
1967年にシングル「僕のマリー」でデビュー。
セカンド・シングル「シーサイド・バウンド」で人気爆発、続く「モナリザの微笑」、そして「君だけに愛を」で一気にグループ・サウンズ (GS) の頂点へと躍り出る。
1968年8月12日にザ・タイガースが後楽園球場で開催した「真夏の夜の祭典」は、日本で初めてのスタジアムコンサート。
なお、ソロとしてのスタジアムコンサートは田園コロシアム(ザ・タイガース、PYGとしても開催)、大阪球場、ナゴヤ球場、横浜スタジアム、東京ドーム、京セラドーム大阪で開催している。
1969年3月1日、アメリカの音楽雑誌の中でも歴史が長く、最も権威ある音楽雑誌のひとつ『ローリング・ストーン』 (Vol.28) の表紙に登場。
日本版が刊行される前の同誌において、日本人が表紙を飾ったのは、これが最初で最後だった。
1971年1月24日、日本武道館で行われた「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」で解散。日本人として初の日本武道館単独公演。
【PYG期】
ザ・タイガースの解散後、沢田は1971年、新たなバンド・PYGに参加する。
当時、欧米で結成されたブラインド・フェイスやプラスチック・オノ・バンドのようなスーパーバンドを模した形で、ザ・スパイダースから井上堯之と大野克夫、ザ・テンプターズから萩原健一、大口広司、ザ・タイガースから沢田と岸部修三という6人のメンバーによって結成された。
このバンドは沢田と萩原によるツインボーカルで、井上、大野、岸部ら作詞や作曲ができる技巧派が揃い、本格的なニューロックを目指した。
しかし、日本ではまだ反体制のジャンルとするロックを、当時最大手の芸能事務所だった渡辺プロダクションの所属ミュージシャンが演奏することに対し、『芸能界が創り出したもの』としてライブではトマトや空き缶を投げつける聴衆もいた。
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【ヴィジュアル期】
1974年、日比谷野外音楽堂ライブでインディアンのようなチークをしたり、
1975年の比叡山フリーコンサートでブルーのラメ入りのアイシャドウをするなど化粧はステージでは行っていたが、お茶の間に流れる一般のテレビ番組では控えていた。
しかしマスコミによって「暴行事件」と大きく報じられたことを契機に、沢田はこれまでの意識を変え、「さよならをいう気もない」以降、ヴィジュアルを重視したスタイルをエスカレートさせていく。
1978年に発売した「サムライ」はナチスをイメージする衣装に刺青、
「ダーリング」は水兵のセーラー衣装、
「LOVE (抱きしめたい)」ではスタジオに雨を降らせ、血で染まった包帯を手に巻いた。 「LOVE (抱きしめたい)」は第20回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。
76年からのジュリーをチェック
ジュリーの中で何かが変わり始めたとされる76年頃から
彼のシングルジャケットと共に、彼の変貌っぷりを振り返ってみましょう。
彼のシングルジャケットと共に、彼の変貌っぷりを振り返ってみましょう。
本名、澤田 研二。
ニックネームはジュリー