はじめに
2010年1月、テレビ朝日「アメトーーク!新春ゴールデンSP」で、人気企画「俺たちのゴールデンプロレス」が放送されました。個性的なレスラーたちが続々と紹介される中、少し違う趣で放送されたのが、大谷晋二郎選手の活動に密着したドキュメントでした。
2009年11月栃木県那須郡にある馬頭西小学校で子どもたちに熱く語る男がいた。レスラー大谷晋二郎である。全校生徒76名は大教室に体操座りして彼の話を真剣に聞いていた。
「一生懸命に大好きなことを頑張っている人は、僕は絶対にイジメなんかしないと思う!」と語りかける大谷のテーマは全国の「イジメ撲滅」なのだ。
とかく「レスラーいじり」で笑いを取る「俺たちのゴールデンプロレス」において、「いじめ撲滅」のために真摯に活動する大谷選手を取り上げたのは異例のことと言ってもいいでしょう。
一方、このドキュメントでは、もう一つの、いや、むしろこちらが大谷選手の本質である場面もしっかり映し出していました。すなわち「熱い男」。目の前の強大な敵に全力でぶつかる、その姿勢はプロレスによって培われたもの。そして、誰よりもプロレスの力を信じているのが、大谷晋二郎なのです。
そんな「日本一熱いプロレスラー」の足跡をたどります。
一方、このドキュメントでは、もう一つの、いや、むしろこちらが大谷選手の本質である場面もしっかり映し出していました。すなわち「熱い男」。目の前の強大な敵に全力でぶつかる、その姿勢はプロレスによって培われたもの。そして、誰よりもプロレスの力を信じているのが、大谷晋二郎なのです。
そんな「日本一熱いプロレスラー」の足跡をたどります。
via miruhon.net
子どもの頃から熱かった!
大谷晋二郎選手は1972年7月21日生まれ。山口県山口市の出身です。意外なことに、幼少期は病弱だったそうですが、そんな大谷少年を勇気づけたのが、プロレスでした。
プロレス少年だった大谷は、プロレス観戦のマナーにうるさかった。自称・新日本プロレス応援団長として、地元・山口県の会場で厳しい目を光らせていた。
「小学2年の時、アントニオ猪木さんとスタン・ハンセンの試合をテレビで見て、体中に電気が走りました。それ以来、プロレスっ子です。新日本が来ると、 必ず会場に行ってましたね。高校生になると、体も大きかったし気が強かったから、汚いヤジを飛ばすヤツを手荒く注意してた。『今何て言った! 藤波(辰爾) さんをバカにしたのか、ちょっと来い』ってね(笑)」
病弱だったにも関わらず、新日本の県内大会には毎回応援に出掛けた。頭に鉢巻き、足にレガース、手にはノボリを握り締め、勇壮な姿で大声援。入門前から名物少年だった。
山口県鴻城高等学校に進むとレスリング部に入り、全国大会でも好成績を収めるほどに成長。そして、高校卒業後、数々の名レスラーを輩出しているアニマル浜口ジムの門を叩きます。
アニマル浜口さんのジムを訪ねると、個室で一対一で向かい合ったアニマルさんに「君が今までしてきたこと、今の状況、これからすること、全部話せ」と言われたそうです。大谷少年の顔をジッと見つめ、真剣に話を聞いていたアニマルさん。あまり長くなっても...と思い、手短に一通り話し終えた大谷少年に向かって、アニマルさんはこう怒鳴ったそうです。
「ウソをつくな!まだ全部話してないだろう!何時間かかってもいいから話せ!」
そのあと涙を流しながら、夢中になって話をしたという大谷少年。本当に話を終えた時に、アニマルさんは初めて笑顔を見せたといいます。
「どうだい?スッキリしたろう?君は誰かに話を聞いてもらいたかったんだよな。君の目が気に入った!明日からジムに毎日通え。稽古をつけてやる」
この時の体験が、後の大谷選手に大きな影響を与えているそうです。
アニマル浜口ジムでトレーニングを積んだ大谷青年は、1992年、晴れて新日本プロレスに入門します。
アニマル浜口ジムでトレーニングを積んだ大谷青年は、1992年、晴れて新日本プロレスに入門します。
1992年2月に新日本プロレスに入門し、同年6月25日の福島市体育館にて山本広吉(現・天山広吉)戦でデビューを果たした。
デビュー間もない頃から伸びのあるドロップキックとキレのあるジャーマン・スープレックスと十八番である顔面ウォッシュ、そして何よりも先輩レスラーに臆することなく向かっていき、実力では全く歯が立たない大先輩の獣神サンダー・ライガーにもケンカ腰で向かっていく姿勢を見せ、徐々に注目を集める存在となった。
【UWF VS NJPW】kento kakihara VS shinjiro otani
1996年3月、新日本プロレスとUWFインターナショナルの対抗戦に出場した大谷選手。ヤングライオン時代からその熱さは変わりません。
via www.youtube.com
ジュニアヘビー級でデビューし、持ち前の負けん気と伸びやかな技で徐々に頭角を現した大谷選手。やがて新日本のジュニア戦線の主役に躍り出ると、1997年には第5代ジュニア七冠に輝きました。
2000年、大谷選手は更なる挑戦のために海外遠征へと旅立ちます。その目的は肉体改造。文字通り一回りも二回りも大きくなった大谷選手は、帰国後、ヘビー級に本格参戦することになります。
2000年、大谷選手は更なる挑戦のために海外遠征へと旅立ちます。その目的は肉体改造。文字通り一回りも二回りも大きくなった大谷選手は、帰国後、ヘビー級に本格参戦することになります。
新団体へ
大谷選手がヘビー級レスラーとして活躍し始めた2000年当時、プロレス界で大きな注目を集めていたのが、新日本のエース・橋本真也選手と、柔道のオリンピックメダリストからプロレスに転向した小川直也選手の抗争です。この一連の出来事が、その後の大谷選手の道のりを大きく変えていくことになります。
2000年4月7日、新日本プロレス東京ドーム大会で橋本真也は小川直也との5度目のシングル戦に挑むことになった。その際に自らの引退をかけることになった。だが小川に敗れて公約通り引退。しかし熱心なファンの折り鶴兄弟から送られた百万羽の折り鶴をきっかけに8月23日、引退撤回を表明。10月9日、新日本プロレス東京ドーム大会で復帰。
復帰後、橋本は他団体との対抗戦に意欲を燃やして新日本に団体内組織「新日本プロレスリングZERO」の設立を表明。これは橋本の後見人的立場をとっていた藤波辰爾が長州力ら当時の主流派に対抗する目的で設立を後押ししたという説もある。しかし、このことは新日本の上層部との対立を招いた。原因は新日本が全日本プロレスとの交流を進めていたのに対して橋本がプロレスリング・ノアとの対抗戦を望んでいたことが対立の主因とされる。
11月13日、橋本の完全独立宣言とともに新日本は橋本を解雇。これを受けて橋本は2001年1月25日、大谷晋二郎、高岩竜一、営業部の中村祥之など、その趣旨に賛同して新日本を退団、退社したスタッフと共にプロレスリングZERO-ONEを設立するに至った。
橋本選手と共に新日本を飛び出した大谷選手。新団体ZERO-ONEの旗揚げに加わり、FMW出身の田中将斗選手とタッグチーム「炎武連夢(エンブレム)」を結成。世代交代を掲げ、団体の垣根を越えた活躍を見せた「炎武連夢(エンブレム)」は、2002年のプロレス大賞ベストタッグ賞を受賞しました。