大下剛史とは?
引退後は広島東洋カープのコーチとテレビ解説者を務め、1991年にはヘッドコーチとしてチームをリーグ優勝に導くなど、指導者としても名を挙げました。
大下剛史の球歴とその根底にある愛についてまとめます。
プロ入りから引退まで
1966年のドラフト2位で東映フライヤーズに入団。1年目の1967年から遊撃手のレギュラーに定着。133試合に出場し、打率.269、28盗塁という成績でベストナインを獲得。身長171cm、体重56kgという細身な体型ながら、張本勲、大杉勝男、白仁天らと共に「暴れん坊軍団」と呼ばれたチームの不動の主軸として活躍した。1969年からは大橋穣の入団により二塁手へコンバートされるが、後に球史に残る名手と評される大橋とは鉄壁の二遊間を築いた。監督の水原が「うちのザル内野がアイツのおかげで変わった」と語るように、きびきびした動きで東映内野陣を見違えるように引き締めた。しかし、大橋は1972年にトレードで阪急ブレーブスに移籍してしまい、大橋との二遊間は3年間だけだった。
1975年、前年に広島東洋カープとのオープン戦で、ガッツあるプレーが当時広島のコーチだったジョー・ルーツ(1975年に広島監督就任)の目に留まり、日本ハムとのトレード交渉が決まり、上垣内誠・渋谷通とのトレードで地元・広島に移籍する。
1番打者に抜擢され、神宮球場でのヤクルトとの開幕戦では、松岡弘からの先頭打者ホームランを放ってチームに勢いをつけ、シーズン中も荒くれ者揃いの東映で培った闘志溢れるプレーでナインを牽引し、赤ヘル打線の切り込み隊長として広島悲願の初優勝に大きく貢献。自身も44盗塁を記録し盗塁王、ベストナインのタイトルを獲得した。
1978年限りで突然現役引退。
【野球人生最大のハイライト】1975年、広島東洋カープ初優勝
広島カープ初優勝 1975 ホプキンスとどめの3ランホームラン - YouTube
テレビ局スタッフにも噛みつく毒舌解説者として、バラエティ番組に取り上げられる
カープ民放速報 : 怒り新党で元カープ大下剛史「新3大試合より気になる放送席」【実況まとめ】
カープ選手のふがいないプレーのみならず、ここぞとばかり指摘しようとしたシーンではない場面がスローで流れるや、「誰だ今のスローを出したのは!」とテレビ局スタッフにキレ出す始末!
それ以降もアナウンサーが「スライディングキャッチ」を「ポケットキャッチ」と言い間違えたのを即座に指摘したり、「このテレビ局はいいテレビ局だからスローをちゃんと流してくれるでしょう」といった皮肉たっぷりな嫌味を言うなど、まさにやりたい放題だったわけです。
もしかしたら、大下剛史が解説を担当する日は下手なプレーを見せられないという声がカープ選手の間に飛び交ったわけではないでしょうが、2008年はカープの年間勝率が0.496だったにも関わらず、大下剛史が解説した日はなんと10戦10勝!!あふれんばかりのカープ愛がある意味結実したと言えるでしょう。
ところが、テレビ局に対する辛口なプレッシャーや嫌味は、やはり度が過ぎたのでしょうか、翌年からこのテレビ局からのオファーはなくなってしまったそうです。
しかし、私自身の印象でいうと、大下剛史の解説と言えば、カープに対する愛や怒りだけではありません。
1995年のヤクルトスワローズとオリックスブルーウェーブとの日本シリーズでは、さほど守備が得意ではないT・オマリーのファインプレーに対し、「野球は気持ちだね。オマリーもこんなプレーができるんですからね」と、素晴らしいプレーには率直に賛辞を惜しみませんでした。
選手・コーチ時代同様、解説にも常に本気で取り組んでいたのだと思います。
1975年の初優勝時には広島ナインでレコードをリリース
1975カープ初V / 選手数え歌 - YouTube
大下剛史さんは実績の割に知名度が低い。俊足、強肩のショートとして大学球界で活躍し、東映では1年目から定位置を射止めた。その後も持ち前の俊足を活かし1番打者として活躍、広島の初優勝にも貢献した。身長172cmなのに体重60kgしかないにも関わらず、ガッツプレーが身上だった。
— 2(3)番ファーストはるか@茂木回復祈願 (@flyer85213) January 2, 2016
ベースボールカードも発売されています
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大下剛史が貫くカープ愛
広島東洋カープは、1975年に初優勝を遂げると1986年までの12年間に5度のリーグ優勝、3度の日本一に輝き、間違いなくセントラルリーグの一時代を築きました。
しかし、自らがヘッドコーチを務めた1991年以来、長年優勝から遠ざかっています。そんなカープの姿が大下にとっては歯がゆいのでしょう。
選手時代の大下は俊足・巧打、そして守備にも長けていました。それは練習による賜物でした。それは常勝時代のカープに受け継がれ、12球団で最も厳しい練習をするチームと言われました。
また、隠し球やドラッグバントといった相手の隙を突く奇策の名手でもありました。体格的に恵まれなかった大下は常に自分がプロとして生き残れる道を探っていたのです。
広島東洋カープはもともと市民球団だったように決して資金的に恵まれているわけではなく、FAやトレード・ドラフトで大物を獲得できる体力がありません。むしろ、自力で育てた選手が次々とFAで流出しています。弱者ならば弱者なりに生き残る戦法を探るのことが必要なのです。
解説者としてのコメントも、常に辛辣でありながら愛にあふれています。
2015年10月7日のリーグ最終戦で中日ドラゴンズに0-3で敗戦し、クライマックスシリーズへの進出が不可能となった試合。8回表に先制点を許し、敗戦投手となった若手投手・大瀬良大地が涙を流しているシーンに対して『見ていて腹が立って仕方なかった。あの場面で「泣くなら一人で、ロッカールームで泣け」と言ってやれるコーチがいないのも情けない』と一刀両断しました。
ゆとり教育をはじめ、一般企業でも上司が部下に気を遣う場面があるなど社会が変容し、厳しさよりも寛容さが優先されていく中、大下はまさに球界最後の鬼軍曹ではないでしょうか。