鮮烈なデビュー
前田智徳 天才打者のホームランまとめ
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1989年にドラフト4位で広島東洋カープに入団した前田智徳。プロ初出場は1年目となる1990年2月、対ロッテとのオープン戦でした。7番打者で先発出場した前田は、5打数5安打(4二塁打)という鮮烈なデビューを果たしたのです。公式戦での初出場は6月6日の対ヤクルト戦、6番センターで先発出場をし、二塁打を含む4打数2安打1打点を記録しました。
そして1991年の開幕戦では1番センターで先発出場し、いきなりの先頭打者ホームランで周囲の度肝を抜きました。もちろんこのホームランが、プロ入り第1号になります。そしてこの年、129試合に出場して打率.271・14盗塁・30犠打の成績でチームの優勝にも大きく貢献。外野手では史上最年少でゴールデングラブ賞を受賞したのでした。
そして1991年の開幕戦では1番センターで先発出場し、いきなりの先頭打者ホームランで周囲の度肝を抜きました。もちろんこのホームランが、プロ入り第1号になります。そしてこの年、129試合に出場して打率.271・14盗塁・30犠打の成績でチームの優勝にも大きく貢献。外野手では史上最年少でゴールデングラブ賞を受賞したのでした。
広島東洋カープの中心選手に
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前田が迎えた1992年、この年のシーズンでは全試合に出場して、リーグ2位の89打点を叩き出し得点圏打率は.358を記録、入団2年目で早くも広島東洋カープの欠かせない中心選手となっていたのです。またリーグ5位の打率.308も残しています。これ以降の規定打席に到達した年では、3シーズン以外で打率3割以上を達成しています。
その他の成績でも、盗塁数18はリーグ第4位で守備においては刺殺数・補殺数ともにリーグトップを記録したのです。さらに最後の締めとして、外野のベストナインにも選ばれたのでした。続く1993年も2年連続で全試合出場した結果、リーグ第3位タイの27本塁打・リーグ第4位の打率.317、そしてリーグ最多の二塁打・最多塁打を記録するなど大活躍の年となります。翌1994年もリーグ第2位となる打率.321を記録し、本塁打もリーグ第5位タイの20本塁打を残し、その上4年連続となるゴールデングラブ賞と3年連続となるベストナインにも選ばれました。
その他の成績でも、盗塁数18はリーグ第4位で守備においては刺殺数・補殺数ともにリーグトップを記録したのです。さらに最後の締めとして、外野のベストナインにも選ばれたのでした。続く1993年も2年連続で全試合出場した結果、リーグ第3位タイの27本塁打・リーグ第4位の打率.317、そしてリーグ最多の二塁打・最多塁打を記録するなど大活躍の年となります。翌1994年もリーグ第2位となる打率.321を記録し、本塁打もリーグ第5位タイの20本塁打を残し、その上4年連続となるゴールデングラブ賞と3年連続となるベストナインにも選ばれました。
怪我と闘いながら
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これまで順風満帆に来ていた前田でしたが、この頃から怪我という悪魔が前田の周りで姿を見せ始めます。1995年5月23日のヤクルト戦の第1打席、セカンドゴロを打って一塁へ向かう時に、なんと右アキレス腱を断裂するという重傷を負ってしまったのです。翌年の1996年には何とか復帰しますが、これまた先発出場をした開幕戦で、足の肉離れを発症し離脱。
5月には復帰を果たして残りの全試合に出場しました。その上2年ぶりに規定打席に到達し、この年から1999年まで4年連続で打率3割以上・得点圏打率.340以上をキープしたのです。大きなハンデと言うか、爆弾を抱えた体でよくここまでできたものだと、その強靭な精神力に感服しますね。
5月には復帰を果たして残りの全試合に出場しました。その上2年ぶりに規定打席に到達し、この年から1999年まで4年連続で打率3割以上・得点圏打率.340以上をキープしたのです。大きなハンデと言うか、爆弾を抱えた体でよくここまでできたものだと、その強靭な精神力に感服しますね。
不屈の精神で
神と呼ばれた男 前田智徳
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その後も1番打者・3番打者と上位打線で活躍を続け、試合後のインタビューでは「怪我をせずにやってこれてるので、それが一番嬉しい」とコメントしていました。2000年は巨人へ移籍した江藤智の穴を埋めるべく4番に起用。広島東洋カープの4番打者として、ハイペースでホームランを量産していましたが、シーズン途中前田を悪夢が襲います。左アキレス腱の状態が悪化し、7月27日には腱鞘滑膜切除手術を受け、シーズンの残りはリハビリとなってしまいました。
翌年の2001年以降は足の状態が良くならず、それなりの活躍はしていたのですが満足いく成績は残せていませんでした。しかし2004年、開幕戦から19試合連続安打を記録。シーズンとしては2年ぶりに打率3割に到達します。そしてなんと2005年は5番レフトで全試合に先発出場して、打率.319・32本塁打、さらには自己最多の172安打を放ったのです。全試合出場は13年振りのことで、三振率.073も自己最高を記録したのでした。2006年には野手キャプテンとなり、史上40人目の3000塁打に到達。そして迎えた2007年9月1日の対中日戦、輝ける金字塔となる史上36人目の2000本安打を達成したのでした。
翌年の2001年以降は足の状態が良くならず、それなりの活躍はしていたのですが満足いく成績は残せていませんでした。しかし2004年、開幕戦から19試合連続安打を記録。シーズンとしては2年ぶりに打率3割に到達します。そしてなんと2005年は5番レフトで全試合に先発出場して、打率.319・32本塁打、さらには自己最多の172安打を放ったのです。全試合出場は13年振りのことで、三振率.073も自己最高を記録したのでした。2006年には野手キャプテンとなり、史上40人目の3000塁打に到達。そして迎えた2007年9月1日の対中日戦、輝ける金字塔となる史上36人目の2000本安打を達成したのでした。
デッドボールにより骨折、引退へ
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2010年からは代打での出場が主になりました。2011年も代打専任で過ごしましたが、4試合で決勝打を打つなどいかにも前田らしい勝負強さを発揮し、代打の切り札として活躍します。同じく2012年も代打の切り札として起用され、打率.327・出塁率.408をマークしたのです。
ところがその日は突然訪れました。2013年4月23日の対ヤクルト戦の8回表。代打で登場した前田は左手首へ死球を受け途中交代に。病院で検査を受けた結果、左尺骨骨折と診断されたのです。その後の9月27日、記者会見を開いた前田智徳は、今季限りで現役を引退することを発表したのでした。
ところがその日は突然訪れました。2013年4月23日の対ヤクルト戦の8回表。代打で登場した前田は左手首へ死球を受け途中交代に。病院で検査を受けた結果、左尺骨骨折と診断されたのです。その後の9月27日、記者会見を開いた前田智徳は、今季限りで現役を引退することを発表したのでした。
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