正田耕三のアマチュア時代
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和歌山市駅近くにあるお蕎麦屋さんの長男と誕生した正田耕三。小学3年生から野球を始めて、和歌山市立城東中学校時代には学童野球で全国優勝を経験しています。高校は市立和歌山商業高校に進学、野球部に在籍しその秀でた守備能力から1年の夏には二塁手のレギュラーになっていました。当時和歌山には箕島高校という強豪校があり、甲子園に出場することはできませんでした。
高校卒業後は社会人野球の新日鉄広畑に入社。1983年の都市対抗では、準々決勝で本塁打を放ち注目を浴びますが、準決勝で敗退します。翌年の1984年にはロサンゼルスオリンピックの日本代表になり二塁を任され、主に一番打者として15打数6安打の好成績で、日本を金メダル獲得に導いたのでした。
高校卒業後は社会人野球の新日鉄広畑に入社。1983年の都市対抗では、準々決勝で本塁打を放ち注目を浴びますが、準決勝で敗退します。翌年の1984年にはロサンゼルスオリンピックの日本代表になり二塁を任され、主に一番打者として15打数6安打の好成績で、日本を金メダル獲得に導いたのでした。
広島カープに入団
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オリンピックがあった年のドラフト会議では、広島東洋カープに2位指名を受け入団します。正田自身は関西出身ということもあり、熱狂的な阪神タイガースファンでした。それでも、自分は阪神ファンだがプロであるからこれからは広島に野球をしにいくと語り広島に向かったそうです。
アマチュア野球の最高峰でプレーした正田ですが、プロに飛び込むことで更に一段階上のレベルに挑戦することになったのです。しかし、もし広島で芽が出ずに活躍できないようであれば、3年で辞めて家業の蕎麦屋を継ぐつもりだったそうです。
アマチュア野球の最高峰でプレーした正田ですが、プロに飛び込むことで更に一段階上のレベルに挑戦することになったのです。しかし、もし広島で芽が出ずに活躍できないようであれば、3年で辞めて家業の蕎麦屋を継ぐつもりだったそうです。
スイッチヒッターに
1988.8.27 阪神vs広島20回戦 3/9
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ルーキーシーズンの1985年、正田はプロのスピードについて行けなくなり、かなり悩んでいました。そんな時、監督の古葉竹識からスイッチヒッターをすすめられ、その年の秋から挑戦を始めます。睡眠と食事以外の時間は、常にバットを握っていたほどの猛練習を積み重ね、その時打撃コーチだった内田順三も、1年のうちの350日は朝から晩まで顔を合わせて指導していました。
その結果、1986年は規定打席到達はならなかったものの、90試合に出場し打率も.288に上昇したのです。1987年は二塁手のレギュラーとして定着。初タイトルとなる首位打者も獲得した上に、ゴールデングラブ賞にも選ばれたのです。そしてこの首位打者、スイッチヒッターとしてはNPB史上初めてでもありました。
その結果、1986年は規定打席到達はならなかったものの、90試合に出場し打率も.288に上昇したのです。1987年は二塁手のレギュラーとして定着。初タイトルとなる首位打者も獲得した上に、ゴールデングラブ賞にも選ばれたのです。そしてこの首位打者、スイッチヒッターとしてはNPB史上初めてでもありました。
並外れた練習量
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チームの中でも屈指の猛練習を積んでいたのが正田でした。シーズン中でも広島でのナイトゲーム終了後には、西区三篠町の合宿所練習場か大野町の屋内練習所のいずれかに出向き、ピッチングマシンを相手に深夜になるまで打撃練習を行なっていたのです。
1988年に湯布院で自主トレを行なった際、200個の菓子折りを持って練習場周辺の家を回り騒音を詫びたそうです。正田の人間性が伺える逸話ですね。1988年のオールスターゲームに出場が決まった時も、練習時間が減ってしまうことを心配していました。一時はコーチから練習を止められることもあったととか。
首位打者になった以降も、左打ちの技術を磨くためビジターでも午前中に打ち込んでから球場入りしていました。ホームでは更に、球場での早出特打を行うのが当たり前になっていました。とにかく練習を積み重ね、現役晩年の1996年でも球界屈指の練習量だったんですよ。
1988年に湯布院で自主トレを行なった際、200個の菓子折りを持って練習場周辺の家を回り騒音を詫びたそうです。正田の人間性が伺える逸話ですね。1988年のオールスターゲームに出場が決まった時も、練習時間が減ってしまうことを心配していました。一時はコーチから練習を止められることもあったととか。
首位打者になった以降も、左打ちの技術を磨くためビジターでも午前中に打ち込んでから球場入りしていました。ホームでは更に、球場での早出特打を行うのが当たり前になっていました。とにかく練習を積み重ね、現役晩年の1996年でも球界屈指の練習量だったんですよ。
現役引退後
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1998年はコーチ兼任としてプレーをしていましたが、若手の出番を増やすために、シーズン途中の8月中旬に球団に引退を申し入れたそうです。その年は、7月5日の対ヤクルト戦で1,500安打を達成、9月5日の対阪神戦ではサヨナラヒットを放つなど最後まで活躍した正田でしたが、9月29日の広島市民球場での対中日戦にて現役を引退します。引退後は引き続き一軍内野守備・走塁コーチを務めましたが、1年で退任し、その後は日本と韓国の2つの国を股にかけて、各球団でコーチを務めます。
そして2020年以降の正田は、野球から離れたところで働きたいということから、なんと会社務めの道を選んだのです。アマゾンジャパン合同会社で派遣職員として勤務し、物流倉庫で棚から下ろした商品をカートに乗せる仕事に従事していました。2020年9月には韓国の球団から誘いもあったのですが断りを入れて、アマゾンでの勤務を継続しているんです。そして2021年2月に学生野球資格を回復させた正田は、同年の3月13日からは京都成章高等学校アドバイザーコーチとして高校球児への指導を始めます。それでもなお、アマゾンでの勤務も継続中で、週に4日はアマゾンで仕事をして、3日は高校のグラウンドで後輩たちの指導を行っているのです。プロ野球で一世を風靡した選手としては、まさに変わり種の人生と言えるでしょう。
そして2020年以降の正田は、野球から離れたところで働きたいということから、なんと会社務めの道を選んだのです。アマゾンジャパン合同会社で派遣職員として勤務し、物流倉庫で棚から下ろした商品をカートに乗せる仕事に従事していました。2020年9月には韓国の球団から誘いもあったのですが断りを入れて、アマゾンでの勤務を継続しているんです。そして2021年2月に学生野球資格を回復させた正田は、同年の3月13日からは京都成章高等学校アドバイザーコーチとして高校球児への指導を始めます。それでもなお、アマゾンでの勤務も継続中で、週に4日はアマゾンで仕事をして、3日は高校のグラウンドで後輩たちの指導を行っているのです。プロ野球で一世を風靡した選手としては、まさに変わり種の人生と言えるでしょう。
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