日本代表としても活躍したDF堀池巧
1965年9月6日生まれ。静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身。
清水東高校時代は大榎克己、長谷川健太とともに「清水東三羽烏」として高校サッカーで活躍。
その後、順天堂大学、読売クラブを経て、1992年に清水エスパルス所属となり、三羽烏が揃って活躍、日本代表でも活躍した。
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1998年後半~1999年前半はセレッソ大阪に在籍。
JSL(Jリーグの前身)で85試合、Jリーグで203試合、日本代表で国際Aマッチ58試合に出場した。
JSL(Jリーグの前身)で85試合、Jリーグで203試合、日本代表で国際Aマッチ58試合に出場した。
三羽烏の一角・堀池巧
大榎克己、長谷川健太と並ぶ「清水東三羽烏」として知られる。少年時代に清水FCの一員として全日本少年サッカー大会で優勝、高校時代に清水東高校の一員として高校選手権で優勝するなどサッカーの町清水が育てたエリート選手として名を馳せる。
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全員が一流だった三羽烏
1991年に清水市(2003年4月に旧・静岡市と対等合併し、現在の新・静岡市清水区となる)がJリーグ参戦を念頭において結成したクラブチーム・清水FC(清水エスパルス)に大榎と長谷川が加入。堀池は1シーズン遅れて加入し3人が再集結。Jリーグ草創期を賑わせる存在となった。
1993年には、清水東三羽烏は3人とも日本代表に選出され、堀池が日本代表不動の右サイドバックとして活躍しており、大榎はディフェンダーとして、長谷川はフォワードに名を連ねた。堀池と長谷川はドーハの悲劇で有名となったW杯アメリカ大会アジア最終予選のメンバーに選出されている。
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清水エスパルス屈指のテクニシャン【大榎克己】を振り返る記事 - Middle Edge(ミドルエッジ)
高校時代から「三羽烏」の一人として有名だった大榎克己選手。清水エスパルス入団後も、順調にキャリアを重ねて日本代表にまで選出されます。そんな彼のサッカー人生をまとめてみました。
堀池巧は守備の達人
主に右サイドバックを務め、日本代表や清水エスパルスでもこのポジションが多かったが、読売クラブ時代の1988年に守備的MF、1989年から1992年までセンターバックとして加藤久とコンビを組み、セレッソ大阪に移籍した晩年にもこのポジションを務めるなど守備のユーティリティープレーヤーとして活躍した。
身長173cmとセンターバックとしてはかなり小柄だったが、的確な読みとポジショニングでカバーしていた。
また、サイドバックとして絶妙なタイミングでの駆け上がりも特長だった。
また、サイドバックとして絶妙なタイミングでの駆け上がりも特長だった。
日本×ナイジェリア 1995インターコンチネンタルカップ - YouTube
1:45~ 堀池のパスからゴール前でカズが惜しいヘディングを放つ!
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サッカーを始めた理由は静岡の土地柄!
サッカーを始めたきっかけは何ですか?
「静岡県の清水市(現静岡市)の出身で、男の子はサッカーをやるのが当たり前だったというか、サッカーをやらないと友達ができないような状況でした(笑)」
―大学までサッカーを続けた理由とは?
「小学校時代と高校時代に日本一になったということと、親と相談して将来安定した職業に就くためにも順天堂大で教員免許を取ろうということになりました。親には「大学4年間で日本代表になれなかったら、教員になれ」と言われていました」
上記はインタビューでの堀池巧のコメント。
順天堂大学時代に日本代表になり、サッカーを職業として選んだ堀池。
4年生の時には、キャプテンを務めながらも日本代表のソウルオリンピックの予選が重なり、大学サッカーとの両立に苦労したそう。
しかしながら、最後のインカレ(全日本大学サッカー選手権大会)では、堀池が決勝点を決めて優勝した。
順天堂大学時代に日本代表になり、サッカーを職業として選んだ堀池。
4年生の時には、キャプテンを務めながらも日本代表のソウルオリンピックの予選が重なり、大学サッカーとの両立に苦労したそう。
しかしながら、最後のインカレ(全日本大学サッカー選手権大会)では、堀池が決勝点を決めて優勝した。