概略
天才そう言って差支えないでしょう。いえ、むしろ他に呼びようがありません。
音楽界において、唯我独尊、唯一無二、そうした存在がプリンスです。
1958年6月7日、アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリスの生まれです。出生名をプリンス・ロジャーズ・ネルソン(Prince Rogers Nelson)。そうです。プリンスというのは本名なんです。
因みにマドンナもプリンスと同じく1958年生まれで本名です。同じ時代にプリンスとマドンナが居たというのは何か不思議な因縁のようなものを感じます。
この2人は1989年に発売されたマドンナのアルバム「ライク・ア・プレイヤー」の中の「ラヴ・ソング」という曲で共作&デュエットしています。
音楽界において、唯我独尊、唯一無二、そうした存在がプリンスです。
1958年6月7日、アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリスの生まれです。出生名をプリンス・ロジャーズ・ネルソン(Prince Rogers Nelson)。そうです。プリンスというのは本名なんです。
因みにマドンナもプリンスと同じく1958年生まれで本名です。同じ時代にプリンスとマドンナが居たというのは何か不思議な因縁のようなものを感じます。
この2人は1989年に発売されたマドンナのアルバム「ライク・ア・プレイヤー」の中の「ラヴ・ソング」という曲で共作&デュエットしています。
マドンナ
プリンスと共演した当時は付き合っていたという噂があったマドンナ。
実際には分かりませんが、晩年のプリンスは、セクシャル路線をやめる。後はマドンナに任せると言っていることからも2人の信頼関係が伺えます。
実際には分かりませんが、晩年のプリンスは、セクシャル路線をやめる。後はマドンナに任せると言っていることからも2人の信頼関係が伺えます。
プリンスはミュージシャンと言えばミュージシャンですが、マルチ・インストゥルメンタリスト、シンガー、作詞家、作曲家、音楽プロデューサーであり、27種類以上の多種多様な楽器を演奏し(レコーディングはほとんど1人で行っている)、ロックンロール、ハード・ロック、ファンク、ソウル、ブルース、ゴスペル、ジャズ、ヒップホップ、ディスコ、サイケデリックなど、ありとあらゆる音楽スタイルをミックスさせ独自の音楽を確立しました。
これまでにアルバム・シングルの総売り上げは1億2000万枚を超えており、12枚のプラチナアルバムと30曲の全米トップ40シングルを持っています。
影響を受けたミュージシャンは、ジェームス・ブラウンやスライ・ストーンなどでファンクからの影響は大きいようですが、ギタリストとしてはジョニ・ミッチェルとカルロス・サンタナから影響を受けたそうです。なかなか興味深いはなしですね。
影響を受けたミュージシャンは、ジェームス・ブラウンやスライ・ストーンなどでファンクからの影響は大きいようですが、ギタリストとしてはジョニ・ミッチェルとカルロス・サンタナから影響を受けたそうです。なかなか興味深いはなしですね。
プリンスの誕生
プリンスの父親ジョン・L・ネルソンはプリンス・ロジャーという芸名で1960年代後半までプリンス・ロジャー・トリオというバンドをやっていました。
17歳年下の母親マティは、ジャズ歌手だったそうです。
プリンスはジュニアハイスクール時代に友人や従兄弟らとバンドを結成します。
いくつかのバンドに参加しているうち徐々に頭角を現し、ミネアポリス・サウンド(シンセサイザーを主体としたファンクミュージック)の中心的存在となります。
そして、メジャー・レーベルがプリンス争奪戦を繰り広げる中、1977年にワーナー・ブラザーズと契約。当時19歳の少年としては破格の契約金とセルフ・プロデュースの権利を獲得しています。
しかし、19歳のデビュー前の時点でセルフ・プロデュースの権利を要求するということ自体スゴイですね。
17歳年下の母親マティは、ジャズ歌手だったそうです。
プリンスはジュニアハイスクール時代に友人や従兄弟らとバンドを結成します。
いくつかのバンドに参加しているうち徐々に頭角を現し、ミネアポリス・サウンド(シンセサイザーを主体としたファンクミュージック)の中心的存在となります。
そして、メジャー・レーベルがプリンス争奪戦を繰り広げる中、1977年にワーナー・ブラザーズと契約。当時19歳の少年としては破格の契約金とセルフ・プロデュースの権利を獲得しています。
しかし、19歳のデビュー前の時点でセルフ・プロデュースの権利を要求するということ自体スゴイですね。
こうして1978年4月に記念すべきデビューアルバム 「フォー・ユー 」が発売されます。
プリンス1人で作り上げたといわれる「フォー・ユー 」は全米163位どまりでしたが、シングルカットされた 「ソフト・アンド・ウェット」はR&Bチャートで12位まで上がっています。
プリンス1人で作り上げたといわれる「フォー・ユー 」は全米163位どまりでしたが、シングルカットされた 「ソフト・アンド・ウェット」はR&Bチャートで12位まで上がっています。
ソフト・アンド・ウェット
Prince- Soft and Wet
via www.youtube.com
このアルバムは、若き日のプリンスが当時足繁く通っていた地元ミネアポリスのクリス・ムーン・スタジオに於けるセッションで培われたアイデアやテクニックがベースとなっています。若くしてワーナーとの破格の契約を勝ち取り(経緯を話すと長くなるので割愛)若き天才いざ華麗なデビュー!…と本人が意気込みすぎてしまった為か、当初のレコーディング予算を大幅に超過してしまうなどの事態を招き、かえってアルバム全体の印象として肩に力が入り過ぎてしまい、真価を発揮しきれなかった…かのような印象も受けます。(これも若気の至りというのでしょうか)
全ての楽器をプレイし、全作詞作曲、及びセルフプロデュースをこなす…というプリンスの代名詞とも言えるこのフレーズが、既にこの時点からスタートしている辺りにプリンスの並々ならぬ自信と意欲が垣間見えます。
プリンスの栄光
1978年にデビューしてから1981年までのプリンスの作品はヒット・チャートを賑わすことはありませんでしたが、今聞いても素晴らしい曲がいくつもあります。
しかし、プリンスを語るのであれば、やはりバックバンドをザ・レヴォリューションを組んでから、つまり1982年からということになるかと思います。
プリンスは、1982年に2枚組アルバム「1999 」をリリースし、大ブレイクします。
しかし、プリンスを語るのであれば、やはりバックバンドをザ・レヴォリューションを組んでから、つまり1982年からということになるかと思います。
プリンスは、1982年に2枚組アルバム「1999 」をリリースし、大ブレイクします。
タイトルの1999はプリンスの描いた世紀末。現実をノストラダムスのように予言して的中させたもの。MTVアワードから出演依頼を受け、断ったことも有名。
一曲目の1999からLittle Red Corvetteへ続き、後は殿下の思うまま、最後まで聞かされてしまう。
収録されている曲は全て素晴らしい。RockなものFuncなもの、そしてSlow Ballad。何一つ文句の付けようがない完璧なアルバム。
1999
Prince 1999
via www.youtube.com
そして翌1984年プリンス最大のヒットアルバム「パープル・レイン 」が発表されます。発表初週だけで100万枚を売り上げたこのアルバムは、全米で1300万枚、全世界で1500万枚にも達しました。
アルバムは全米1位、シングルカットされた 「When Doves Cry(1位)」、「Let's Go Crazy(1位)」、「 Purple Rain(2位)」、「I Would Die 4 U(8位)」、「Take Me With U(25位)」の5曲も軒並み大ヒットしています。
アルバムは全米1位、シングルカットされた 「When Doves Cry(1位)」、「Let's Go Crazy(1位)」、「 Purple Rain(2位)」、「I Would Die 4 U(8位)」、「Take Me With U(25位)」の5曲も軒並み大ヒットしています。
via lpt.c.yimg.jp