遊撃手で3割30本を達成した男!池山隆寛!!
池山隆寛の獲得タイトルと主な表彰や記録
ベストナイン:5回 (遊撃手部門:1988年 - 1990年、1992年、1993年)
ゴールデングラブ賞:1回 (遊撃手部門:1992年)
月間MVP:1回 (1998年6月)
優秀JCB・MEP賞:2回 (1989年、1990年)
日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1995年、1997年)
オールスターゲーム出場:7回 (1988年 - 1992年、1994年、1998年)
サイクルヒット:1990年8月23日、対中日ドラゴンズ22回戦(明治神宮野球場)、本塁打・単打・二塁打・三塁打の順
405守備機会連続無失策:1991年6月1日から同年9月28日にかけて記録。セ・リーグ・遊撃手の最高記録。
ゴールデングラブ賞:1回 (遊撃手部門:1992年)
月間MVP:1回 (1998年6月)
優秀JCB・MEP賞:2回 (1989年、1990年)
日本シリーズ優秀選手賞:2回 (1995年、1997年)
オールスターゲーム出場:7回 (1988年 - 1992年、1994年、1998年)
サイクルヒット:1990年8月23日、対中日ドラゴンズ22回戦(明治神宮野球場)、本塁打・単打・二塁打・三塁打の順
405守備機会連続無失策:1991年6月1日から同年9月28日にかけて記録。セ・リーグ・遊撃手の最高記録。
池山隆寛のプレースタイルは?
フルスイングの醍醐味を見せつけた男
常にフルスイングの打撃は、見るものをくぎ付けにしたほどである。
しかし、池山の持ち味は打撃のみではなく、守備も目を見張るものがあり、ゴールデングラブ賞を受賞した年は、シーズンの大半無失策を続けたほどの名手である。
しかし、池山の持ち味は打撃のみではなく、守備も目を見張るものがあり、ゴールデングラブ賞を受賞した年は、シーズンの大半無失策を続けたほどの名手である。
ぶんぶん丸の愛称で知られるほどの思い切りの良いスイングでファンを魅了する打者で、全力が持ち味のプレースタイルである。
あの細い体で残した成績は、振り込んだ練習の証だとおもいます。
あの細い体で残した成績は、振り込んだ練習の証だとおもいます。
池山隆寛のプロ入りするまでの軌跡
兵庫県尼崎市に生まれて、市立尼崎高校で三塁を守り、三番打者として夏の甲子園で活躍するほどです。
1983年の夏の甲子園で、2回戦を突破し、3回戦に進むが久留米商業に逆転サヨナラ負けを喫し、涙を呑むことになる。
その活躍もあってか、1983年のドラフトにヤクルトスワローズから2位指名を受けプロへの道へ進むのです。
1983年の夏の甲子園で、2回戦を突破し、3回戦に進むが久留米商業に逆転サヨナラ負けを喫し、涙を呑むことになる。
その活躍もあってか、1983年のドラフトにヤクルトスワローズから2位指名を受けプロへの道へ進むのです。
ヤクルトスワローズに入団から大活躍の池山隆寛
背番号は36。入団2年目より代打、守備固めで一軍で出場し、関根潤三が監督に就任した1987年より、水谷新太郎から遊撃手のポジションを奪いレギュラーに定着する。当初は八番打者であったが、持ち前の長打力で1988年から5年連続で30本塁打を記録した。1990年には打率.303・31本塁打・97打点という記録を残し、遊撃手としては史上初の「3割30本」を達成した[2]。同年8月23日の中日戦ではサイクル安打も達成した。1992年からは背番号を1に変更した。
92日本シリーズ 池山隆寛逆転2ラン ヤクルトvs西武 - YouTube
ハウエル 池山 橋上 デストラーデ 渡辺久
via youtu.be
長くチームの中心打者を務めつつ、遊撃手というポジションを任されてきたが、1996年からはアキレス腱痛に悩まされ始め、宮本慎也の台頭もあって1997年から三塁手へ転向する。2000年からは岩村明憲へ三塁のポジションを譲り、代打を務めることが多くなった。2001年には背番号1を岩村に譲り、自身は入団時の36に戻した。翌2002年に現役を引退した。
2002年10月17日に明治神宮球場で行われた広島東洋カープ戦の試合前には「現役最後の、ありのままの姿を見せたい」と意気込みを語った。池山はこの時期にはもはや全力疾走も不可能な右足の状態であったものの久々に3番・遊撃で先発出場し、途中からは一塁に回ってフルイニング出場した。打撃では5打数1安打で、8回には現役最後の安打となる左中間二塁打を放ち、守備でも4回に遊撃、延長10回には一塁でもファインプレーを披露した。
【プロ野球】2002/10/17 ブンブン丸 池山隆寛選手、現役最終打席!【ヤクルト】 - YouTube
最後まで気持ちのいいスイングでしたね
via youtu.be
試合後には引退セレモニーが行われ、引退挨拶で「今日まで19年、多くの応援を頂いた。こんなに幸せな男はいません。これから第二の人生の打席に入りますが、必ず皆様の前に戻ってきます」とメッセージを送り、また同年7月に亡くなった応援団「ツバメ軍団」団長であった岡田正泰へも感謝の意を表した。
現役を退き、後輩の指導者へと変化する。
2003年から2005年までは、フジテレビ(2004年まで)・ニッポン放送の野球解説者およびサンケイスポーツの野球評論家を務めた。
2006年からはヤクルト時代の恩師である野村克也監督の下で東北楽天ゴールデンイーグルス一軍打撃コーチを務め、2009年に退任するまでに首位打者2人(2008年のリック・ショート、2009年の鉄平)、本塁打王1人(2007年の山崎武司)を輩出した。山崎は「池山さんならヤクルト時代から野村克也監督のID野球が染みついているからバッティング、データ面でも参考になりました」[3]と著書に記している。
via www.sanspo.com
身長183cm、体重75kg
右投げ右打ち
ポジション:遊撃手、三塁手
90年代のヤクルトスワローズの主軸として活躍した選手で、持ち前の長打力を生かし、3割30本を達成した選手である。本塁打もさることながら三振の数もリーグトップを何度か獲得している。