HERO NOMO   野茂英雄のトルネードは日米の壁をブッ飛ばした!
2021年1月25日 更新

HERO NOMO 野茂英雄のトルネードは日米の壁をブッ飛ばした!

自らの信念に従って、タブーだった大リーグに挑み、いきなり大ブレイク。アメリカでTornado( トルネード) を巻き起し、日本人が世界で通用することを証明した。

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シーズン最終登板では8回6安打2失点11奪三振で13勝目を挙げ、ロサンゼルス・ドジャースの7年ぶりの地区優勝を決めた。
「NOMO! NOMO!」
試合後のロッカールームで大合唱するチームメイトに野茂英雄は、笑顔で頭を下げた
「ヒデオのために頑張ろうと思わせる投手。
彼ほど勇敢に相手に挑み、勝ちたいという気持ちをマウンドで示す投手はいない。
捕手を含め8人、我々にヒデオのために頑張ろうと思わせる。
そんな気概をいつもマウンドで示していた。
彼は言葉はうまく話せないが、マウンド上で、その背中で我々野手を引っ張っていく投手だ。
だから我々はヒデオの後ろを守ることが大好きなんだ。
チームの勝利のために懸命に投げる。
投手として最も大事な姿をいつもマウンド上で示している」
(エリック・キャロス、チームリーダー、一塁手)
「ノモサンとは同い年です。
同い年だけど、私の憧れでもあります
彼ほどに信頼できる選手、友人はいません。
ノモサンは純粋にアメリカの野球が楽しみたかったという気持ちもあったでしょう。
ただ口数は少ない人ですが、自分が背負っているものの大きさを常に自覚していたように思います。
日本の選手に道を切り開き、世界中の選手にメジャーへの門戸を開いたのは間違いなく彼です。
志を持った選手はたくさんいましたが、結果なくして道を切り開くことはできません。
ノモサンはその責任を果たそうとしていた。
とても大事なことだと思います。
またチームメイトから愛され、信頼されるノモサンの姿に感銘を受け多くのことを学びました。
1番勉強になったのが「humble(謙虚さ)
どんな立場であろうと謙虚な姿勢は忘れてはならない。
ノモサンの謙虚な人柄は初めてベロビーチで会った時から変わらないですね」
(デリック・ホール、ドジャース広報部職員、現:アリゾナ・ダイヤモンドバックスのCEO兼社長)
「Baseball needed him(野球が彼を必要としていたんだ)」
(トミー・ラソーダ監督)
その後、チームはシンシナティ・レッズとのディビジョンシリーズに進出。
野茂英雄は第3戦に先発したが、6回途中5失点で降板した。
チームも3連敗し敗退した。
大リーグ1年目、野茂英雄は、シーズン通算、13勝6敗、防御率2.54(リーグ2位)、3完封(リーグ最多タイ)、236奪三振。
最多奪三振のタイトル(アジア人初)、新人王(アジア人初)を獲得し、サイ・ヤング賞の投票でも4位に入った。

野茂英雄のテーマ HIDE~O Jap.ver song byDIAMANTES

「腕をいっぱいに伸ばすユニークなワインドアップ」
「90マイル(145km/h)中盤の直球」
「エゲつないフォークボール」
で野茂英雄が2ストライクと追い込むたびに超満員に膨れ上がったスタジアムは三振をおねだり。
そしてバッターが三振するとアナウンサーは、
「SANSHIN」
と日本語で実況。
野茂英雄は、アメリカに投げ方同様、「 Tornado(トルネード)」を巻き起こし、圧倒的な人気でドジャースタジアムに人を呼び戻し、アウェーでも野茂英雄が投げると人が来た。
スト後、嫌気がさしてファン離れが止まらなかったメジャーリーグの「救世主」となった。
「アメリカに渡り、長くこのロサンゼルスに住んでいます。
日本食レストランを経営していますが、私たち日本人にとって野茂さんの頑張りほど嬉しいことはないんです。
アメリカは移民を受け入れてくれて我々も商売が出来ることは有り難い限りですが、歴然とした差別が存在しているのも事実です。
いつも周囲の目を気にしながらなるべく目立たないように生きてきましたが、今は違います。
俺は日本人だ!と初めて声を大にしていえるようになったんです。
野茂さんが日本人としてアメリカで頑張ってくれたおかげなんです。
私同様の思いを持つ日系人はたくさんいると思いますよ」
(日系人ファン)
DIAMANTES(ディアマンテス、沖縄県を中心に活動するラテンバンド)が、「野茂英雄のテーマ・HIDE〜O」をシングルCDで発売。
「Nomoが投げれば大丈夫」
の歌詞がブームになるなど、野茂英雄の活躍は日本も盛り上げた。
このメジャーの日本人に対する評価を一変させた野茂英雄の鮮烈なデビューイヤーがなければ、その後の日本人メジャーリーガーの活躍ももう少し紆余曲折したのかもしれない。
間違いなく野茂英雄は日米の壁を破壊した。

【面白映像!野球マニア】野茂のエグいフォークがヤバすぎる!!

1996年、ロサンゼルス・ドジャースは野茂英雄との契約を3年430万ドルに延長。
4月13日、野茂英雄はフロリダ・マーリンズ戦で17奪三振、完投。
7月5日、日米通算100勝を達成。
9月1日、フィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー史上3人目となる1年目から2年連続200奪三振を達成。
9月17日、ロッキーズ戦でアジア人初のノーヒットノーランを達成。
クアーズ・フィールドは狭い上に高地で空気が薄いためボールが飛びやすく打者に有利な球場で、ノーヒットノーラン達成は初めてのことだった。
「標高1600m、コロラドの球場ですよ。
今でも誰も成し得ない打者天国の地で彼はノーヒッターを達成しました。
投手としての凄さはもちろんですが、私は試合後の出来事が忘れられません。
あの日は雨のおかげで試合開始が2時間ほど遅れました。
(その間、野茂英雄はヘッドホンをつけ、ソリティアをしていた)
試合終了は深夜でした。
それから記者会見やら何やらで一緒にホテルに戻ったのは午前2時近かったと思います。
それでも私は何かノモサンのためにお祝いがしたくて『何かお望みはありますか?』と聞いたんです。
そうしたら彼はこういったんです。
『セブンイレブンに行きましょう! 
ブリトーが食べたいです』
たまげましたよ。
ノーヒッターを達成した夜に何かお祝いをといったら、セブンイレブンに行ってブリトーが食べたいというと思いますか?
しかも自分で電子レンジで温めていた。
ノモサンは当時、アメリカでロックスターの扱いですよ。
でもこれが本当のノモサンなんだと私は思うんです。
口数が少ないシャイな人ですが、本当の彼を知れば彼ほど優しくていい奴はいない。
ユーモアのセンスもあり最高のチームメイトです。
私はこんなノモサンが大好きです」
(デリック・ホール、ドジャース広報部職員、現:アリゾナ・ダイヤモンドバックスのCEO兼社長)
野茂英雄はこのシーズン、最終的に16勝をマーク。
チームはサンディエゴ・パドレスと地区優勝を争い、1ゲーム差で敗れたがワイルドカードを獲得。
野茂英雄は、アトランタ・ブレーブスとのディビジョンシリーズ第3戦に先発し、4回途中5失点。
チームも前年に続き3連敗で敗退した。
 (2253618)

1997年、29歳の野茂英雄は、打球を右肘に受けて退場。
復帰後、不調に陥り、オフにはリスクもあったが、長く投げられるようにと右肘の遊離軟骨除去手術を受けた。
1998年、近鉄バファローズで野茂英雄と一緒に戦った吉井理人がニューヨーク・メッツに入団。
1997年オフにFA宣言し、巨人入団かメジャー挑戦かで揺れていたとき、決断させたのは野茂英雄からの電話だったという。
「自分の気持ちに正直になった方がいいですよ。
もしも日本に残って、ジャイアンツやほかのチームと契約したら一生後悔しますよ。
立ち止まって自分が何をやっているのか考えるんです。
自分自身をよく見つめるんです」
吉井理人は巨人の高額オファーを断りメッツと1年契約を結んだ。
「野茂ほど世間でいわれているイメージと実像とのギャップが激しい人間はいない。
いつも無口でブスッとしていると思われているが実際はひょうきんでよく喋る。
酒を飲みに行けば歌も歌うしくだらない冗談をいって滑るような茶目っ気もある。
今、日本人がこれだけメジャーで活躍しているのも野茂のおかげである。
日本でもメジャーで活躍できるとアメリカのスカウトに思わせたことも大きいし、メジャーのこと、とくにグラウンド外の移動の仕方やクラブハウスでの過ごし方など、それこそ「クラビー(クラブハウスボーイ)にチップを払うのか」から「スパイクを磨くのは誰に頼めばいいのか」まで、小さな情報はすべて野茂から入り、日本人選手に広まっていった。
予備知識があるため、その選手もスッと新しいチームに入っていける」
(吉井理人)
野茂英雄は、例年よりも1ヶ月早くロサンゼルス入りし、トレーニングを開始。
開幕前のトレーニングキャンプで、146km/hを記録するなど球威はあったが制球が悪く、計21回で自責点19。
シーズンが始まると、4月3日に7連続奪三振を記録したが、18日は2/3回8失点で降板。
5月9日、右手中指の痛みで途中降板。
6月1日、ドジャースを退団し、トレードでメッツへ移籍しシーズンを終えた。
10月、オフに入っても遊ばずに
「まず腰を治すこと」
に専念。
制球の乱れをカバーしようとフォームを崩し、腰を痛めていた。
腰がよくなると次は
「フォームを元に戻すこと」
だった。
よかったときのフォームを何度も観て、今とどこがどう崩れているのか徹底的にチェック。
その後、忘れかけていたよいフォームを体にもう叩き込むために、毎日、朝も昼も夜も、鏡の前でシャドーピッチング。
10月のオフから2月のキャンプインまで5ヵ月間、毎日、何百回、何千回とシャドーを繰り返し、そのフォームに戻すために必要な筋力トレーニングやキャッチボールも行った。
1999年3月30日、野茂英雄は、10ヵ月でメッツから放出された。
その後、カブス、ブルワーズ、デトロイトタイガースと渡り歩き、2000年12月15日、ボストン・レッドソックスと1年契約を結んだ。

野茂英雄 ノーヒットノーラン 2001

2001年4月4日、ボルチモア・オリオールズとのシーズン開幕試合で2度目のノーヒットノーランを達成した。
オリオールズの本拠地球場「オリオール・パーク・アット・キャムデン・ヤーズ」で、球威のある直球とキレたフォークボールで5連続を含む11つの三振を奪い、許した走者は、四球と失策での4人だけ。
唯一のピンチは9回1アウトの場面で、打球がセンター前にフラフラと上がったときだったが、セカンドが背走してナイスキャッチした。
3万5602人の観衆も敵味方関係なく声援を送り、ノーヒットノーランを後押しした。
110球目、145km/hの外角ストレートがライトフライになると野茂英雄の周りに歓喜の輪ができた。
レッドソックスのユニホームを着た最初の試合で、いきなりチームのヒーローとなった野茂英雄に全米は驚いた。
野茂英雄は、その後も活躍し、チームメイトに慕われた。
ロサンゼルスからフィラデルフィアへの飛行機の中で、野茂英雄はトレーナーとどれだけビールを飲めるか勝負し、18杯で酔い潰れたトレーナーを尻目に35杯飲んだ後、自分で歩いて飛行機を降り、次の日の朝8時半にチームメイトに電話をして
「一体どうしてこんな時間に起きられるんだ?」
とあきれられた。
 (2253616)

2001年5月2日、イチローとメジャー初対決し、第1打席、セカンドゴロ、第2打席、センターフライと抑えたが、5回2アウト2塁の第3打席で144km/hの内角速球がイチローの背中を直撃。
無表情で一塁へ向かうイチローに野茂英雄は日本式に帽子を取る謝罪をしなかった。
「安打を打たれてはいけない場面なので内角を狙った。
でもボールが引っ掛かってしまった。
三振狙い? 
当然でしょう」
「アメリカに来て初めての死球が日本人からとは思いませんでした。
僕は野茂さんを敵の1人と考えています。
向こうも同じではないでしょうか」
2人の初対決は、1993年6月12日のオリックス vs 近鉄戦で、プロ2年目のイチローは野茂英雄からプロ初ホームランを放った。
阪神淡路大震災が起こった年(1995年)、野茂英雄はアメリカに渡り衝撃的なデビューを飾り、前年、プロ野球記録となる210本安打を記録したイチローと所属するオリックスは奮闘し
「がんばろう KOBE」
を合言葉にした復興の象徴の1つとなって人々に希望を与えていた。
そのシーズン中、イチローは、アメリカに取材に行く記者に
「野茂さんのサインボールが欲しい」
と頼んだ。
売買を防止するため禁じられていたが、記者から事情を聞いた野茂英雄はニコッと笑い
「サイン禁止、知らなかったことにしといて下さいよ」
といって公式ボールににサインをした。
帰国した記者からサインボールを受け取ったイチローは、その後、首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率の5冠を達成し、オリックスも初のリーグ優勝に輝いた。
1999年オフにメジャー移籍を要望したが球団に拒否され、1年後にポスティングでメジャーに移籍した。
2人の日本での対戦成績は、13打数4安打、打率3割8厘、メジャーでは、12打数4安打、打率3割3分3厘。
最終対決は2008年4月15日、カンザスシティ・ロイヤルズでプレーしていた野茂英雄は、4回4対4、ノーアウト1塁の場面で登板。
連打を浴びて4対5とされ、なおノーアウト1、2塁でマリナーズの1番、イチローと対決し、フォークで空振り三振に打ち取った。
そして5日後、戦力外となり、この年、ユニホームを脱いだ。
「今、芽の出ていない人もあきらめる必要はないと思うんです。
日本のドラフトで指名されなかったからといってプロ野球をあきらめる必要はないし、日本の野球をクビになったからといってあきらめる必要はない。
アメリカに来たって野球はやれるんですから。
そういった意味で僕の活躍が励みとなって大リーグを目指す人が出てきてくれたら嬉しく思います。
僕がその道筋を少しでもつけることができたなら、それは素直に喜びたいし、僕を通じてメジャーの良さがわかったというんであれば、それはそれで嬉しい」

日本人 最強メジャーリーガー 野茂英雄伝説17 開幕投手 ランディジョンソンと投げ合う 前半

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