HERO NOMO   野茂英雄のトルネードは日米の壁をブッ飛ばした!
2021年1月25日 更新

HERO NOMO 野茂英雄のトルネードは日米の壁をブッ飛ばした!

自らの信念に従って、タブーだった大リーグに挑み、いきなり大ブレイク。アメリカでTornado( トルネード) を巻き起し、日本人が世界で通用することを証明した。

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25歳の野茂英雄は、4年連続となる最多勝と最多奪三振を獲得したが、一方で四球や自責点もリーグ最多と安定感に欠き、シーズンオフに現状維持の年俸を提示された。
コンディショニングコーチ、立花龍司は、調整法で鈴木啓示監督と意見が合わず退団。
選手を「お前」「あいつ」「そいつ」呼ばわりする鈴木啓示監督と立花龍司の科学的トレーニングを支持していた選手の間にも、すでに亀裂が入り、溝ができていた。
「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」
そういう野茂英雄と、被本塁打560本というメジャーリーグ記録(ロビン・ロバーツ、505本)を上回る世界記録を持ち
「男の勲章だと思っている。
どんな強打者からも逃げずに勝負した結果。
560本も打たれるまで使ってもらえる投手は他にいない」
という鈴木啓示監督は、バッターと堂々と勝負するというところ、非常に頑固なところで似ていた。
しかし2人が仲良くなることはなく事あるごとに揉めた。
野茂英雄は球団が解雇した立花龍司コンディショニングコーチと個人的に契約を結び、鈴木啓示監督の指揮下でもできる限り自分のやり方を通し、アメリカに行った後も、パーソナルトレーナーを雇い、ウエイトトレーニングを含むコンディショニングを行った。
1960~1980年代、30年間、日本のプロ野球選手は、平均身長180cm、平均体重80kgと体格はほとんど変わらなかった。
それが1990年代からは体重が徐々に増加し、近年では、平均身長180.8cm、平均体重84.2kgになった。
これは多くの選手が本格的にウエイトトレーニングを行った結果だと思われるが、そのきっかけとして野茂英雄のアメリカの活躍も大きいといわれる。
しかし近年のアメリカのメジャーリーグの投手は平均身長191.2cm、平均体重95.2kg、野手では平均身長187.1cm、平均体重93.1kg。
以前よりよくなってきているとはいえ日本のプロ野球選手は体格でまだまだ不利である。
そんなアメリカでパワーで勝負できた野茂英雄はやはり怪物だった。
「僕は確かに頑固かもしれません。
人間としても野球人としても。
でも、ピッチャーという人種は、どこかで頑固でないとやっていけない」
(野茂英雄)
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1994年、開幕戦で野茂英雄は球団関係者に、
「開幕だけは系列会社がいっぱい来るんで車がいっぱいになる」
と球団役員専用はあったが選手専用の駐車場がなかった藤井寺球場に車を停めないように要求され
「投げへん!帰る!」
と激怒。
なんとか説得され、8回まで西武打線を11奪三振無安打、パーフェクトに抑え、3点リードで9回1死満塁で降板。
後を受けた赤堀元之が伊東勤に開幕戦史上初の逆転サヨナラ満塁本塁打を浴び、近鉄バファローズは波瀾のスタートとなった。
その後も低迷し、6月17日には首位西武に16ゲーム差の最下位。
7月1日の西武戦で野茂英雄は、自身が持つ1試合14与四球という日本新記録を16に更新しつつも3失点で完投勝利という珍試合を演じた。
立ち上がり、ヒット2本と3四球で2点を失い、その後はヒットは散発で得点は奪われないもの、2回2、3回1、4回1、5回1、6回1、7回3、8回1と四球を出しまくった。
それでも味方が8点を奪い、野茂英雄は8対2で9回裏のマウンドに立ち3四球で押し出しの1点を奪われながらも3失点完投。
191球中105球がボールだった。
「納得? 
してません。
でもベンチのムードはいいし途中で降りるわけにはいかんと思って投げました」
野茂英雄はいつものように淡々と振り返ったが、鈴木啓示監督は
「ほかのピッチャーにはマネできん投球や。
これが野茂。野茂にしかできんピッチングや」
とほめているのかけなしているのかわからないコメントを残した。
その後、近鉄バファローズは、球団新記録の13連勝、約1カ月半で32勝6敗、勝率.842という驚異的な勢いで一時は首位に立ったが、8月に野茂英雄が右肩痛のため戦線を離脱して以降は後退し、最終的に5連覇を達成した西武ライオンズと7.5ゲーム差の2位に終わり、野茂英雄も最多勝と最多奪三振の連続記録が途切れた。
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1994年のシーズンオフの契約更改で、野茂英雄は、複数年契約とダン野村(野村団)を代理人とする代理人交渉制度を希望した。
球団は
「君はケガをしたんだぞ。
なのに複数年とはなんだ」
「すでにキミは近鉄の顔ではない」
と拒否。
球団社長はマスコミに
「年俸をもっとよこせということでしょう」
と野茂英雄の要求は年俸吊り上げのための口実で
「次の更改ではサインするでしょう」
と楽観視していた。
しかし実は野茂英雄の大芝居にノッてしまっていた。
野茂英雄は故障で2軍で調整しているとき、外国人選手の代理人を務めていたダン野村(野村団)に出会い、監督が仰木彬から鈴木啓示に交代して以来、調整法など埋めがたい溝があること、そしてできればアメリカのメジャーリーグに挑戦したいことを話した。
しかし当時、FA(フリーエージェント、自由契約選手となり国内外どの球団とでも契約交渉ができる制度)の資格は、10年間の1軍でのプレーが条件で、野茂英雄はまだ6年も残っていた。
ダン野村(野村団)の実母は野村沙知代、継父は野村克也、実弟はケニー野村(プロ野球選手)、異父弟は野村克則(プロ野球選手)。
駐日米軍将校、アルヴィン・エンゲル(Alvin Engel)と伊東芳枝(野村沙知代)との間に生まれ、インターナショナル・スクール、東京都調布市内の高校を経てカリフォルニアポリー大学を卒業。
母親が再婚し野村克也の継子となり、ヤクルトスワローズにドラフト外でテスト生として入団したが、一軍公式戦出場のないまま退団。
テレビでMLB(メジャーリーグベースボール)の解説などを行った後、渡米しエージェントとして活動するようになり、1993年にマック鈴木の代理人として、シアトル・マリナーズとのマイナー契約を締結していた。
ダン野村(野村団)は、日本の野球協約を翻訳し、アメリカで代理人として活躍する友人、(後に松井秀喜の代理人となる)アーン・テレムに
「日本球界からMLBへ行くための抜け道はないだろうか?」
と相談。
アーン・テレムは野球協約68条第2項
「日本球界で任意引退リストに載った全保留選手は、他の球団と選手契約にかんする交渉を行ない、または他の球団のために試合あるいは合同練習等、全ての野球活動をすることは禁止される」
に大きな穴を見つけた。
「日本球界で任意引退リストに載った選手が国内でもう1度復帰する場合は元の球団に戻らなければならないが、日本国外でプレーする場合、何らかの拘束を受けるという記述は何もない。
つまり任意引退になればメジャーには自由に挑戦できるという解釈が可能である」
ダン野村(野村団)は、MLBコミッショナー事務局に相談し、日本プロ野球コミッショナー事務局へ一通の質問状を出してもらった。
「日本で任意引退になった選手は海外に移籍しても構わないのか?」
日本のコミッショナー事務局は以下のような回答状を返した。
「日本の任意引退選手が現役復帰する際に日本国内を選ぶ場合は保有権を有する球団が優先される。
海外球団とならば契約できる」
ダン野村(野村団)は、
「ならばどうすれば任意引退できるかだ」
と野茂英雄に契約更改で球団がYesといわない条件を述べるよう指示。
「むしろ相手を怒らせるくらいで丁度いい」
そして野茂英雄は
「代理人契約を認めてくれ」
「複数年契約を認めてくれ」
と次々と前例のない条件を出し、球団にハネつけられると、2回目の交渉で
「FA取得までの6年間20億円の複数年契約」
と要求をさらにエスカレートさせ
「これを受け入れてくれないなら引退する」
と発言。
「やめてどうなる。
自分のキャリアがどうなるか考えろ」
「チームのことも少しは考えろ」
という球団に
「考えてるから辞めるんです」
と言い放った。
不遜な態度に球団社長は怒りに震えながら
「だったら、この場ですぐサインしろ」
と他球団に移籍不可な任意引退の契約書を出し、野茂英雄はサインした。
 (2253631)

「予想通り、球団は「生意気だ、任意引退させる」という態度に出た」
(ダン野村(野村団))
「『もう辞めてくれ』といわれたからね。
『じゃあ、辞める』といったら
『ああ、どうぞ。
じゃあこれ、任意引退証』。
辞めてくれてラッキー、みたいな感じや」
(野茂英雄)
すべて予定通りのダン野村(野村団)は、先の日米のコミッショナー間で行われた「任意引退に関する書簡」をリーク。
すぐに
「野茂大リーグ挑戦か?」
の文字が各紙に躍った。
「野茂はうちにいるか、戻ってくるしかない」
とタカをくくっていた近鉄バファローズは驚き、コミッショナーに助けを求め、
「その書簡は私信に過ぎないのではないか?」
と粘ったが後の祭りだった。
最後の面子として
「最後は我々に任せてくれないか?」
とアメリカ行きを手伝おうとしたが、野茂英雄に
「すでに退団した私に助けなど必要ありません」
と返されてしまった。
選手の海外流出は他人事ではない他球団は、近鉄バファローズに同情的で野茂英雄を批判した。
マスコミも
「なにが大リーグや。
野茂よ、ナメたらアカン!」
「野茂英雄はアメリカで絶対に成功しない」
「野茂よ。
ワガママはいかん」
「すでに日本では通用しなくなっていた野茂が、メジャーで通用するわけがない」
「野茂の肩は、すでに壊れている」
「態度が悪すぎる」
「世話になった球団に足で砂をかけて出て行くのはけしからん」
など大バッシング。
鈴木啓示監督は
「あいつのメジャー挑戦は人生最大のマスターベーション」
とまでいった。
かつてメジャーのハードルはずっと高く、メジャー挑戦は無謀と思えた。
それゆえに野茂英雄は
「裏切り者」
とさえいわれた。
その反面、当然、
「日本の野球を守るためには日本で育った人材を海外に出してなるものかという、日本のプロ野球界だけをみた、世界をみていない、いわゆる鎖国状態でしたね」
と古田敦也がいうようにいかにも古くて保守的で日本的な球界とマスコミの意見にアレルギー反応を起こす人や
「さすが!」
「日本が誇る侍!」
と野茂英雄の挑戦を肯定的にとらえたり
「現役バリバリ、しかもプロ野球のトップ選手がメジャーに行くとどうなるのか?」
とワクワクしたり
「がんばってほしい」
「最初に野茂が行くときなんかも、みんな犯罪者扱いだったやんか。
だからそういう意味では野茂はすごいよね。
メジャーを切り拓いていってステロイド全盛時代のこんな(体格がいい)やつばっかりやんか。
それを相手にノーヒットノーラン2回やで」
(清原和博)
「日本のトップの選手が大リーグでどこまで活躍できるのか注目した」
(野茂英雄を獲得できなかったロッテに1位指名された小宮山悟)
などと素直に応援するファンや選手も多かった。
「僕は別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。
ただ、あの監督の下ではやれないと思った。
それだけなんです」
野茂英雄はそういうが、必然的にパイオニア(先駆者、開拓者) として期待と責任を負うことになった。
 (2253628)

1995年は、1月に阪神・淡路大震災、3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件、そして5月に野茂英雄のメジャーデビューと2カ月おきに大事件が起こることになった。
2月13日、日本球界とマスコミのバッシングを背中に受けながら野茂英雄とダン野村(野村団)は、海を渡り、50の州とコロンビア特別区、首都ワシントンD.C.からなるアメリカで、合計30球団により編成される世界最高峰のプロ野球リーグ、MLB(メジャーリーグベースボール)の1チーム、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。
MLBでは、メジャー契約とマイナー契約がある。
1チーム40人までと結ぶことができるのがメジャー契約で、日本的にいえば1軍となる。
その40人の選手枠に入った中で25人がベンチに入りメジャーリーグの公式戦に出場できる。
残りの15人は、基本的にマイナーでプレーしながら25人枠に入る機会を待つ。
40人枠に入れない選手は、マイナー契約となり、日本的には2軍。
彼らは3A、2Aなどで結果を残しメジャー契約を勝ち取らなければ表舞台に立てない。
世界各国の豪腕や大砲との競争に勝ち、メジャー契約を勝ち取るには、圧倒的な力をみせなければならない。
メジャーとマイナーでは、プレーできる舞台以上に、報酬、食事、移動などの待遇で天と地だった。
「マイナーではハンバーガーがあればいい方」
「バスで平気で5、6時間の移動をする。
途中の休憩は1回だけ。
シートのリクライニングも少しだけで腰が悪い選手は床にマットを引いて寝ていて、ほかの選手はそれをまたいでトイレに行ったりね。
朝4時起きで飛行機移動もあった。
自分でホテルを取って泊まるときは、若い選手なんかは2人で1部屋を取って泊まっていた」
日本では1軍と差はあるものの、2軍もマネジャーがスケジュールを管理してくれて移動手段やホテルなど環境も整っている。
日米、どちらがいいとはいえないがアメリカは日本以上に差が激かった。
野茂英雄は、年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円に目減り。
背番号16は、親交のあったとんねるずの石橋貴明が映画「メジャーリーグ2」でつけていた番号ということで選ばれた。
「僕はやらなきゃアカンのです。
僕が失敗したら日本人選手にダメの烙印が押される」
(野茂英雄)
 (2253626)

1995年5月1日、翌日の野茂英雄のメジャーデビューを控え、キャンドルスティックパークに日本の取材陣が殺到。
テレビカメラも含め相当数の報道がコメントを取ろうと狭いロッカーの中に押しかけた。
着替え中にカメラとマイクを向けられ、他のチームメイトに迷惑がかかることを気にした野茂英雄は、パンツを脱いだ。
「これならさすがに映せないでしょう」
騒ぎを知ったラソーダ監督は監督室からかけつけ怒鳴った
「コメントが欲しいならオレがいくらでも何時間でも話してやる。
野茂にまとわりつくことはやめろ!
出ていけ!」
報道陣はすごすごと退散した。 
名門ドジャーズを率いて19年、68歳のラソーダは大リーグ最年長の監督だったが
「キツい仕事だから体調を整えて肉体的にも精神的にも最高の状態が必要なんだ」
と水泳などコンディショニングやトレーニングを行い、練習でもよくバッティングピッチャーを買って出る。
現役時代はピッチャーとして大リーグでは1勝も挙げられなかったが、監督としては通算1500勝を超えていた。
イタリア移民の家に生まれたパスタ好きの熱血漢で、チーム全体を1つの家族と考え、選手は
「My Son(息子)」
だった。
ドジャーズの1軍、40人の中には6ヵ国、14人の外国人がいて、2軍を含めると300人以上の選手の中で1/3以上が外国が人という大リーグ随一の多国籍チームだった。
「人種や国籍なんて全く関係ない。
野球ができるかどうかが重要です。
大切なのは有能な若者でチームを勝利に導いてくれること。
野茂は異国からたった1人できて、しかも英語が話せない。
私の父もイタリアから移民してきたとき言葉が通じず大変苦労した。
だから野茂には居心地のいい家族的な気分を感じてほしい」
 (2253620)

1995年5月2日、前年の長期ストライキによって公式試合が162試合から144試合に減り、開幕も1ヵ月近く遅くなった大リーグで、野茂英雄がサンフランシスコ・ジャイアンツとの開幕戦に先発しデビュー。
1964、65年とサンフランシスコ・ジャイアンツでプレーした村上雅則以来、32シーズンぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。
ジャイアンツは、史上最高額、6年48億円のバリー・ボンズ、前年43本塁打を放ち、ストでの打ち切りがなければ61本の最多本塁打を更新していたといわれるマット・ウィリアムズなどがいる強力打線だった。
アメリカの関係者は、東洋の島国から来たピッチャーの力に懐疑的で、デビュー戦は「負ける」か「勝ち負けなし」と予想し、日本のファンも大リーグの実力は未知数で、自国のエースが打ち込まれないように祈るような思いで見守った。
野茂英雄の初球はインサイドへのストレート。
そして最初の打者を見逃しの三振に打ち取り、続く2番も内野フライでツーアウトを取った。
3番、バリー・ボンズ、フォアボール。
4番、マット・ウィリアムズには、初球に盗塁を許し、ファウルで粘られフォアボール。
5番、グレナレン・ヒルに対して、突如、ボールが浮き出し、ストレートのフォアボール。
しかし6番、ロイス・クレイトンをフォークで空振り三振に打ち取り、2アウト満塁のピンチを乗り切った。
その後、5回、91球を投げて7奪三振1安打無失点でマウンドを降りた。
ジャイアンツの先発、マーク・ポーチュガルも好投したため、スコアは0対0で勝ち負けはつかなかった。
大方の予想通りの結果だったが、内容的にはハズレ。
野茂英雄は、大リーグのバッターに勝ち、ナ・リーグ屈指の強力打線を抑え切った。
延長15回表、ドジャースが3点を取り、その裏にジャイアンツが4点を取ったため、試合はドジャーズのサヨナラ負けとなった。
5月14日、ピッツバーグ・パイレーツ戦で16奪三振を記録。
5月24日、ジャイアンツ戦で日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利。
5月29日、4試合で50奪三振を達成し、アジア人初のピッチャー・オブ・ザ・マンスを獲得。
 (2253624)

6月2日、メジャーデビュー1ヵ月後、7度目の先発となるニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利。
先発の野茂英雄は完投ペースで快調に飛ばしていたが、1点リードで迎えた9回、初勝利目前で最初のバッターにフォアボール。
何としてでも野茂英雄に勝たせたいラソーダ監督は、ピッチャーを交代。
ベンチで緊張しながら試合を見守る野茂英雄に隣に座っていたチームメイトが話しかけた。
「心配するな。
みんなで君に初勝利を送るぞ」
2アウト、ランナー1塁で、鋭い打球をセカンドがファインプレーでアウトにするとラソーダ監督は野茂英雄に駆け寄り祝福した。
6月24日、ジャイアンツ戦の1回表、野茂英雄は制球が乱れ、いきなり2アウト満塁のピンチ。
キャッチャーのマイク・ピアッツァはマウンドに駆けよった。
「フォークを投げろ。
体で止めてやるから」
普通は3塁にランナーがいる場合、ワイルドピッチを恐れてキャッチャーはフォークを要求しない。
「危険だったけど打者が打つ気満々だったからコイツは振ってくるぞと」
1球目、地面に落ちて跳ねたフォークをマイク・ピアッツァは体で止め、前に落とした。
バッターは空振りして1ストライク。
マイク・ピアッツァは2球目もフォークを要求。
ホームベースの手前に落ちて大きくバウンドしたボールを腹で受け止めたがボールは前に大きく転がった。
2ストライクをとってから決め球もフォークでバッターは空振り三振。
マイク・ピアッツァの体を張ったプレーで野茂英雄5勝目、初完封を記録した。
 (2253630)

試合中、野茂英雄ピンチのとき、大リーグでは通訳はグラウンドに入っていけないため、ウォレス投手コーチは

Did Good - Yoku Deki Mashita(よくできました)
Concentrated Good - Yoku Shuchu Deki Mashita(集中)」
Are You Tired? - Soo Car Eh Mashitaka?(疲れましたか)」
Good Luck - Gan Bah Teh Kudasai(がんばってください)」

などいくつかの日本語を書き留めたカードをつくり、それを持ってマウンドに走った。
ウォレス投手コーチに日本語で声をかけた野茂英雄は
「No Problem」
と英語で答えた。
当初、ウォレス投手コーチがよく使った日本語が

「Keep Ball Low - Hee Koo Koo(低く)」

でボールを低めに集めるよう指示した。
野茂英雄は、ナ・リーグ(ナショナルリーグ)の奪三振のトップを独走した。
球種は2つ。
ストレート(直球)とフォークボール。
直球は、リリースするときボールを指で強く弾いてバックスピンをかけている。
バックススピンをかけて投げられたボールは浮き上がっていくが、野茂英雄ほど勢いよくボールを弾くとホームベースの上を通過するとき、スピンなしのボールに比べて最高で10㎝高くなる。
バッターにとって直前で浮き上がってくるやっかいな球となる。
またアメリカのボールは、マメが潰れて苦労したが、フォークは驚くほど落ちた。
野茂英雄のフォークボールは、落差が大きいだけでなく直前で落ちるためにバッターは打ちにくかった。
バッターはピッチャーの手首をみて球種を読んでいて、投げる直前に手首が広い部分がみえればストレート、側面がみえたら変化球と判断するが、野茂英雄は手首の広い部分をみせたままフォークボールを投げた。
同じフォームから投げられた球は、バッターの手前で、フォークなら落ちて、ストレートなら浮き上がった。
野茂英雄は、独特のフォームでバッタバッタと三振の山を築き、人気、実力ともに頂点を極めたオールすーたーゲームに日本人として初めて選出され出場し、先発投手として2回1安打無失点。
 (2253621)

8月、ドジャーズは1日の休みもない27連戦があり、移動距離は10000㎞にも及んだ。
ドジャーズの先発陣は5人いて、日本で中5日で投げ続けていた野茂英雄にもキッチリ4日での登板が続いた。
15日のカブス戦を前に右肘に張りを感じていたが、もし自分が投げなければローテーションが崩れ、他の選手のコンディションに大きな影響が出てしまうため、登板を志願した。
こうして大リーグ、20試合目の登板は、球が走らず打たれ、初回にいきなり3点を取られ、7回までに11本のヒットを打たれ5失点で降板した。
その後、チームメイトより早くグラウンドに出て1人で練習をすることが多くなった。
右肘の張りや連戦での疲労でバランスが崩れていた。
8月31日、長い遠征を終え、ロサンゼルスに戻って行われたメッツ戦の8回、右手中指の爪にヒビが入り、自ら試合を止めて降板。
この後、初めて登板の間隔があいた。
チームのの疲労はピークに達していたが、試合中、ラソーダ監督は
「Never Give Up(あきらめるな)」
といい続けた。
9月12日、1ヵ月近く勝ち星がない野茂英雄がカブス戦に登板し、本来の伸びのあるストレートと落差のあるフォークで11勝目を挙げ、復活した。
「我々は野茂が投げる日は勝つと思っています。
そのことは野茂にはプレッシャーになりますが彼なら勝てるんです。
つまり彼はエースなんです」
(マイク・ピアッツァ)
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