HERO NOMO   野茂英雄のトルネードは日米の壁をブッ飛ばした!
2021年1月25日 更新

HERO NOMO 野茂英雄のトルネードは日米の壁をブッ飛ばした!

自らの信念に従って、タブーだった大リーグに挑み、いきなり大ブレイク。アメリカでTornado( トルネード) を巻き起し、日本人が世界で通用することを証明した。

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1968年、日本のGDPがアメリカに次いで世界2位となり、全国の大学に学生運動が広がり、「週刊少年ジャンプ」「ビッグコミック」「プレイコミック」が創刊された年、野茂英雄は、九州西方にある五島列島の奈留島出身の元漁師、郵便局員の静雄の子として大阪市港区で生まれた。
野球を始めたのは小1。
阪神タイガースが好きで、毎日、壁にボールを当てて遊んでいたが、子供の頃から打者に背中を向けるように体を捻って投げる「トルネード(竜巻)投法」だった。
「いつからと聞かれても記憶にないんです。
小さいときにキャッチボールの相手をしてくれた父親から、体を大きく使って投げろとはいわれたけど、自然にそうなったとしかいいようがない。
高校に入ったころには、もうトルネードに近い形になっていました」
とにかく速い球が投げたい一心でできた投げ方だったが、実際、平均138~145km/h、最速で152.9km/hのストレートと124~132km/hのフォークボールを武器とする投手になった。
高校は、いくつか名門高校野球部のセレクション(練習に参加したりテストを受ける)を受けたが受からず、大阪府立成城工業高等学校(現:大阪府立成城高校)に入学。
2年生でエースとなり、夏の甲子園大阪予選2回戦、生野高校戦で完全試合を達成。
3年生時には大阪予選ベスト16(5回戦)まで進んだが甲子園には出場できなかった。
「甲子園は意識したことはないです。
高校では毎日やめたくて仕方なかった。
練習がきつくて。
どこの野球部でもやっていることですが特に朝練習がつらかった。
始まるのは午前6時30分で、家から学校まで通学に1時間ほどかかったので始発電車に乗っていた。
眠くてね。
しかも朝は走ってばかり。
それでも気の合う仲間がいてくれたので何とか最後まで続けることができた。
それに野球界って縦社会でしょう。
上の命令に従わなければならない。
いやなことでもね。
だから目上の人と気軽に話せなかった。
野球よりそっちのことばかり考えていた。
ただ社会人時代の全日本チームは違っていました。
上下関係は厳しくないし、年齢差に関係なく誰にでも打ち解けて話ができた。
アメリカでも「縦社会」は感じない」
(野茂英雄)
「気が優しいというか、周囲に気を使う人間ですね。
例えば彼に「一番お世話になった人はだれか」と聞いてみてください。
たぶん「わかりません」と答えるでしょう。
中学、高校、社会人、それにアメリカでいろんな人に世話になっているから1人だけいうわけにはいかない。
そういう風に考える子なんですよ」
(宮崎彰夫、成城工高野球部監督)
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高校を卒業して、新日鉄堺に入社。
給料は11万9000円、手取り9万円ほどだった。
「プロなんて考えもしなかった。
就職できたなぐらいの気持ちです」
社会人1年目に、速球と共に最大の武器となるフォークボールを習得。
2年目(1988年)には日本代表に選出されソウルオリンピックに出場した。
野球が正式種目として採用されたのは1992年のバルセロナオリンピックで、このときはまだ公開競技で、プロの参加も認められていなかった。
A組、アメリカ、韓国、オーストラリア、カナダ
B組、日本、プエルトリコ、オランダ、チャイニーズタイペイ
各組で総当たり戦の予選を行い上位2ヵ国が決勝トーナメントに進む形式で、日本は3連勝で予選を1位通過し、決勝トーナメント準決勝で開催国、韓国を下し、決勝戦でアメリカと対戦。
アメリカの先発、先天的な障害で右手がない隻腕投手、ジム・アボットは、ピッチャーライナーを体で受け止め、すぐに一塁に投げてアウトをとるなどして完投。
日本代表は3対5で敗れ、ロサンゼルスオリンピックに続く2連覇はならず、銀メダルに終わった。
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当時、日本の野球は、140km/h前後の速球と制球力、そして変化球がピッチャーに求められたが、国際大会で「赤い稲妻」といわれたキューバ、最強のベースボール国、アメリカなどの強豪国と渡り合うためにはパワーピッチャーが必要だった。
「国際大会で必要だったのが球速。
日本代表の投手になるための指針となったのが90マイル(145km/h)+サムシング(決め球、空振りを奪える特殊球)だったんです」
(山中正竹、ソウルオリンピック野球日本代表投手コーチ)
野茂秀雄、与田剛、潮崎哲也、佐々岡真司、西村龍次、社会人の剛腕投手が選出され、それをリードしたのが、立命大から「眼鏡の捕手は大成しない」といわれていたプロ野球入りを目指したが叶わず、トヨタ自動車に進んでいた古田敦也だった。
彼らは翌年のドラフトでプロ入りし、球界にはびこっていた様々な定説を覆し、新時代を切り開いていった。
野茂英雄は、その中心にいた。
「野茂は怪物ですよ。
遠征ではやっぱりみんなやせるんです。
1次予選を突破して決勝リーグのときはみんなやせて体力が落ちているんです。
日本チームは予選はむっちゃ強いはずなんです。
でも野茂だけは太っていました。
何でも食えるって。
あの存在感というのはやっぱりすごかった」
(西村龍次)
野茂英雄はソウルオリンピックでキューバ代表を
「凄いっすよ。
あのキューバのパワー。
あんなん初めてですわ」
「打たれても、抑えても、何か爽やかな感じで気持ち良かったです」
「あの迫力半端じゃなかったっすよね」
と評し、彼らの豪快な野球、力 vs 力のパワー野球への憧れを垣間みせた。
キューバの選手も野茂英雄の速球と打者の手前で消える魔球に呆れ返り、投手は練習でトルネード投法のマネをしたり、野茂英雄からホームランを打ち、かつ三振を喫したオマール・リナレスやアントニオ・パチェコは
「ミ・アミーゴ(僕の友達)」
といった。

1989年日本シリーズ 加藤哲郎の問題発言

同年(1988年)、近鉄バファローズは、仰木彬が監督に就任。
すると、前年、最下位だったチームは2位でシーズンを終えた。
そして1989年には9年ぶり3度目のパリーグ制覇を果たし、日本シリーズで巨人と対戦した。
初戦からいてまえ打線の近鉄バファローズは2連勝。
第3戦、近鉄バファローズの先発:加藤哲郎は、6回1/3を投げて3安打無失点に抑え、勝利投手となり、試合後、お立ち台に立った。
「(巨人打線は)大したことなかったですね。
打たれそうな気はしなかった」
「シーズン中のほうがよっぽどしんどかった。
相手も強いし」
といかにも関西らしくイケイケでいい放った。
翌日の新聞は
「今の巨人なら(パリーグ最下位だった)ロッテの方が強い。
このチームに負けたら西武、オリックスに申し訳ない。
明日(優勝が)決まるから、もう(自分が)登板することはないでしょう」
という刺激的な見出し。
これをみた、世界のポリスを自任するアメリカ同様、強大な力を持つ関東の最強球団は、日本のプロ野球の秩序を守るため、調子にノッた関西球団の撲滅を誓い、その後、一気に4連勝し日本一となった。
加藤哲郎は、10年で17勝12敗、防御率4.60と投手として平凡だったが、あの要らぬ一言のおかげで引退後、近鉄バファローズが消滅した後も、解説者やタレントとして活動し続けた。
「(囲み取材で)近鉄担当のある記者が『ところで哲ちゃん、実際のところ、どうなん?』と聞いてきたんで、僕は『桑田、斎藤、槙原、水野……。あれだけエエピッチャーがおったら、そりゃ優勝するで』と答えました。
『じゃあ、打線は?』と水を向けるもんやから『ピッチャーはスゴイけど打線はアカンなぁ』というたんです。
だってそうやないですか。
あの年、巨人で1番打っていたのがクロマティ。
3割8分近く打っていた。
そこでビデオを観たら、まぁアウトコースの低めにチェンジアップさえ投げておけばセンター前かライト前ヒットですむなと。
それやったらとりあえず打たせとこと。
次のバッターにヒットが出て1、2塁ですむやろと。
これは3番の篠塚さんも一緒なんです。
ヒットはあっても大きいのはない。
ランナーになっても足が遅いので置き物と一緒ですわ。
じゃあ他のバッターはどうか。
原さんは調子が悪いし、駒田さんは当たるも八卦みたいなバッター。
岡崎さんいうてもシーズン中に3割打っているわけではない。
そりゃ石毛さん、辻さん、秋山さん、清原、デストラーデと並ぶ西武のほうがはるかに怖かったですよ。
そんな話をしているうちに『(パリーグ最下位だった)ロッテより弱いんちゃうの?』という質問が出た。
僕は『そりゃ、ロッテに失礼や』というたんです。
それで『どっちが怖いかいうたらロッテのほうやな』と答えた。
それが『巨人はロッテより弱い』になってしまったんです」
(加藤哲郎)
パリーグ優勝のご褒美として、球団は選手にハワイ・オアフ島4泊6日の旅行をプレゼント。
金村義明はそれに家族と参加したが、球団は
「家族は別」
と負担を求めた。
金村義明ら選手は密かに
「今度優勝したら球団主催の旅行は辞退して、選手と家族だけで有馬温泉に泊まろう」
と決めた。
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1989年11月26日、日本シリーズから1ヵ月後、ドラフト(新人選手選択)会議が行われ、1979年の岡田彰布、1985年の清原和博の6球団競合を上回る8球団(阪神タイガース、ロッテオリオンズ、ヤクルトスワローズ、横浜大洋ホエールズ、福岡ダイエーホークス、日本ハムファイターズ、オリックスブレーブス、近鉄バファローズ)が野茂英雄を1位指名。
クジ引き抽選で仰木彬監督が当りを引いて、近鉄バファローズが交渉権を獲得した。
その他にも、佐々木主浩(大洋)、佐々岡真司(広島)、小宮山悟(ロッテ)、潮崎哲也(西武)、古田敦也(ヤクルト)、岩本勉(日本ハム)、石井浩郎(近鉄)、前田智徳(広島)、新庄剛志(阪神)など大豊作のドラフト会議だった。
「優勝した次の年に入団やったから仰木さんはずっと「ラッキーやった」っていっていた。
(クジを引く順番が最後で)残っていたのが野茂だから。
7人外しているわけだから選ぶん違う」
(金村義明)
野茂英雄の契約金は史上初の1億円台となる1億2000万円。
契約の中には
「投球フォームを変更しない」
という条件もあった。
仰木彬監督は、それを全面的に受け入れ口を出さなかった
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野茂英雄、長谷川滋利、イチロー、田口壮、仰木彬の多くの教え子がメジャーリーガーとなったが、その全員が仰木彬を
「師匠」
「恩師」
などと頭が上がらない存在であるという。
野茂英雄同様、この年からに近鉄バファローズに入ったコンディショニングコーチ、立花龍司は、量より質を重視する科学的で合理的なトレーニングや練習のやり方導入しようとした。
反発されることも多かったが、仰木彬監督は理解を示した。
「仰木さんは個性を潰さない。
(野茂英雄が)あんな投げ方していて解説者の人はみんなアカンといっていた。
(ランナーに)走られまくるし。
春季のサイパンキャンプから野茂が来たらマスコミも急にたくさん来た。
フライデーとかも出始めた頃だしね。
イラんことできひんやないか!
そんな奴入ってきたら!
マスコミ連れてくんな!
サイパンなんか極楽やのに!って思っていましたね。
野茂はあのまま。
ボーッとしている。
でもものすごい野球好きで野球オタク。
表にあまり出さんけど。
新日鉄でも新日鉄の下請けの社員やったから。
高卒だしね。
環境もウチとよう似ていたし、貧乏でね。
プロ入って意固地なところあるよね。
あの投げ方絶対に変えない。
黙々と走っているし。
もう自分のやることずっとそのまま。
ブレないよね」
(金村義明)

【野茂英雄 全盛期】ドラフト1位で近鉄入団。プロ初勝利では三振記録も樹立!1年目からトルネード投法からのフォークボールは絶品!はたして清原和博はホームランを打てるのか?オールスターでの名勝負も

1990年4月10日、野茂英雄が西武ライオンズ戦でプロ初登板。
1回裏、フォアボール、エラー、フォアボールでノーアウト満塁とし、4番の清原和博との初対決を迎えた。
野茂英雄は清原和博より年齢は1つ下だが、同じ大阪出身で、体格も気性も似ていた。
高校時代、清原和博は野茂英雄を知らなかった。
高校3年生の清原和博がPL学園で全国制覇することしか考えていなかったとき、成城工の2年生ピッチャー、野茂英雄は大阪予選2回戦で完全試合を達成して新聞にも載った。
しかし清原和博の記憶に刻まれることはなかった。
甲子園に行けなかった無名のピッチャーは、新日鉄堺で才能を開花させ、20歳で日本代表に選ばれソウルオリンピックに出場することになっても、
「のしげ」
と読まれてしまうことがあるほどまだまだ無名だった。
しかしソウルオリンピックで銀メダルを獲得し、1989年のドラフト会議で史上最多の8球団から1位入札を受け、史上初の1億円突破となる1億2000万円の契約金でプロの世界に飛び込んできた野茂英雄は清原和博にとって、
「年下では初めての難敵」
となった。
野茂英雄は、この場面で清原和博に対し、フォークを使わずストレートで真っ向勝負。
2ストライク1ボールと追い込んでからの4球目、渾身のインハイへのストレートは、力みのせいか、140km/hに届かなかったが、打ちにいった清原和博のバットは空を切り三振。
野茂英雄はプロ初登板で、プロで初めての三振を清原和博から奪った。
「速かったよ。
あのフォーム、どこからボールが出てくるのか、わからへんかった。
でも今日は(契約金の1億2000万円のうちの)7000万円の野茂やったね。
あと5000万円分の力を出したら、けっこう抑えられるで。
あれはいいピッチャーや」
その後も野茂英雄と清原和博は、本気でしばき合う真剣勝負をした。
ノーヒットノーランがかかった試合でも野茂英雄は清原和博にストレートで勝負し、打ち返されたこともあった。
「なんでそんな場面で?」ではなく、「そんな場面だからこそ」勝負しなければならない。
そんな男だった。
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「野茂 vs 清原は18.44mの勝負じゃなくて斬り合いだったですね。
野茂選手は相変わらず、あのブスッとした顔をいつもしてるんですけれどもね。
それでも目は違いますよ。
清原選手もなんとしても野茂選手のストレートを打ちたいという感じだったんですね。
カーブやフォークじゃなくてストレートを打ちたいという気迫がみなぎっていた。
そのときは球審でみていて、ちょっと震えがきました。
ピリピリ感がね。
2人ともニコリともしない。
僕の中で、ストレートの力といったら伊良部(秀輝)選手か、野茂選手なんですよ。
スピード自体、野茂選手は最速が151km/hか152km/hくらい。
でも野球は体感速度の世界なんですよ。
スピードガンの世界ではない。
他のピッチャーが155km/h、160km/h出ていても野茂くんのストレートの方が速くみえましたね。
2人とも共通してるのは体が大きい。
だからものすごくマウンドが近くみえたんですよ」
(山崎夏生、パ・リーグ審判)
4月29日、野茂英雄がオリックス戦で1試合17奪三振の日本タイ記録で完投しプロ初勝利。
このシーズン、近鉄バファローズは3位に終わったが、野茂英雄はデビュー年に、最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と投手4冠を独占し、ベストナイン、新人王、沢村栄治賞、MVPも獲得。
特に奪三振に関しては、三振奪取率10.99、2桁奪三振試合21回、5試合連続2桁奪三振。
スコアブックに三振を「K」と表記するため、「ドクターK(三振博士)」と呼ばれ、Kボードを持って応援する観客もいた。
「騒がれるのはいやだった。
マスコミに時間を取られたし私生活はなかった。
日本のマスコミはこっちがやめてくれといっても追いかけてくる。
アメリカではそんなことはない。
もちろん近鉄では楽しいこともありましたよ。
でも野球は単なる仕事という感じ。
没頭できる環境じゃなかった」
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1991年も野茂英雄は、6試合連続2桁奪三振を記録。
チームは、前半戦最後の西武との直接対決で勝って首位で折り返したが、9月に西武との直接対決で3連敗し、逆転優勝され2位に終わった。
1992年も西武の独走を許し2位に終わり、シーズン終了後、9年ぶりのチームを優勝に導き、その後もAクラスを守った仰木彬から、ドラフト2位で入団し近鉄バファローズ 一筋、投手として317勝、近鉄唯一の永久欠番、背番号1を持ち、公共広告機構(ACジャパン)のCMで「投げたらアカン」といった鈴木啓示に監督が交代した。
1993年、野茂英雄、吉井理人、石井浩郎などがいる近鉄バファローズは、戦力的に前年まで3連覇の西武ライオンズと大差はないとされ、この年も優勝候補に挙げる声は多かった。
「投球フォームの改造をしないこと」という約束で入った野茂英雄に対し、仰木彬監督はすべてを任せていたが、鈴木啓示監督は
「三振は取るが四球が多すぎる。
投球フォームを改造しなければ、いずれ通用しなくなる」
と干渉した。
それまで
「開幕戦まで調子が整えば良い」
とスロー調整だった野茂英雄にオープン戦から結果を求め、練習では、それまで投げ込みやウエイトトレーニング中心にカラダをつくっていた野茂英雄にひたすら走ることを要求し、
「一体何周走ればいいんですか?」
と聞かれると
「何周とかと違う。
野球選手はひたすら走るもんなんや」
と答えた。
他の投手にも
「スパイクを履いてランニングするように」
と指示したところ、コンディショニングコーチ、立花龍司に
「この時期(冬)にスパイクを履いてランニングすると足を痛める元になるからやめて欲しい」
といわれたが
「野球選手がスパイクを履いてランニングするのは当たり前や」
と譲らなかった。
近鉄バファローズは、開幕ダッシュした過去2年と比べ、4月を6勝7敗と平凡なスタート。
6月に12勝7敗と勝ち越し3位に浮上したが、7月以降は負け越しAクラス入りが絶望的となった。
9月以降は20勝12敗と大きく勝ち越し、トータル66勝59敗5分で勝率5割を果たしたものの最下位でシーズンを終えた。
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