UWF vs 新日本プロレス 新日本プロレスに戻ったUWFはプロレス最強神話を終わらせた。
2022年7月18日 更新

UWF vs 新日本プロレス 新日本プロレスに戻ったUWFはプロレス最強神話を終わらせた。

経営難のために新日本プロレスに出戻ったUWF。両団体は己のスタイルを貫き、抗争を繰り広げた。中でも前田日明は、アンドレ・ザ・ジャイアント、藤波辰巳、長州力を血祭りにあげた上、キックボクサー、ドン・ナカヤ・ニールセンとの異種格闘技戦も劇的に勝利。アントニオ猪木に代わる「新格闘王」という称号を得た。

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ファンは以前から「アントニオ猪木 vs 前田日明」を熱望していたが、その欲求はさらに増した。
猪木は40代だが、もちろん負けるわけにはいかない。
20代後半の前田は、たとえいくら大金を積んで台本を渡しても、キレるとなにをするかわからないところもあり、ファイトスタイルを含め非常に危うく、結局、対戦は実現しなかった。
UWF勢の加入によって一時高騰した新日本プロレスの人気は再び低迷。
毎週金曜20時だった「ワールドプロレスリング」は、月曜20時にお引っ越し。
焦る新日本プロレスは、全日本プロレスのリングに上がっていた長州力、マサ斎藤、小林邦昭、スーパーストロングマシン、ヒロ斎藤、馳浩、佐々木健介らの引き抜きを画策。
長州力にとってプロレスはあくまでビジネスで、多額の移籍金を示すと説得は容易だったが、問題は全日本プロレスで交渉は難航した。
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1987年1月19日、一同は巡業のために九州入り。
22日、新日本プロレスは「松の家旅館」、外国人選手は「ビジネスホテル恋路」、UWFは水俣駅前の「水俣旅館」に分宿。
新日本プロレスが貸し切った松の家旅館は、九州本土と天草諸島に囲まれた八代海を目の前にのぞむ戦前創業の老舗で、主人とその両親、嫁、数人の女性従業員で切り盛りしていた。
7階建てで海に面した崖に沿って建ち、最上階の7階がフロント、6階が40畳の大広間、5階から2階が客室、1階が温泉浴場。
エレベーターはなく移動は狭くて急な階段だったため、アントニオ猪木、坂口征二は5階、地位が低いものはほどより下の階に宿泊した。
九州巡業は閑古鳥で赤字続き。
坂口征二は、UWF勢との関係を改善するために親睦会を開くことを決定し、身内のレスラーたちに
「明日、Uと飲むからよ」
と告げた。
23日、
「焼肉がしたい」
「食材や飲み物は自分たちで用意をするから、肉や野菜を焼く台を用意してくれ」
と新日本プロレスからリクエストを受け、松の家旅館は、近くの観光農園「福田農場」から畳の上でも使える焼肉台を数台借りて6階の大広間に設置。
プロレスラーになる前、焼肉店で働いた経験があり、この日、試合がなかった藤原喜明がチャンコ番となって、主人と共に車で肉、野菜、酒類を買いに出た。
そして旅館に戻ると、さっそく準備に取りかかり、そのときに得意のワカメスープも用意した。
「新日時代からワカメスープは、よく猪木さんからリクエストがあったね。
ちゃんこってメインが肉ばっかりなんだよ。
牛だとバター焼き、豚だと豚ちり、あと鶏のちゃんことかね。
その後にどうしてもさっぱりしたもんが食べたくなるんだろうね。
よくつくってたなあ」
水俣市体育館の興行は18時30分にスタートし、試合を終わると新日本プロレス勢は宴会場に集結し、アントニオ猪木と坂口征二が中央市に座った。
遅れてUWF勢、スタッフ、新聞、雑誌、テレビの記者やカメラマンも入り、合計数十人で焼き肉が始まった。
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UWF勢と新日本プロレスが一緒に飲むのはこれが初めてで、酔った前田日明が猪木に近づき、
「もっとこうしなくちゃいけない」
と熱く語り、猪木はそれをウンウンとうなずきながら聞いていた。
開始から1時間が過ぎてくだけた雰囲気になった頃、前田日明が斜め前に座っていた武藤敬司 にいった。
「お前、海外から帰ってきたからっていい気になってるんじゃねぞ」
ドン荒川は
「武藤、オマエ、日明にいうことないのか」
とけしかけ、武藤は
「アンタらのやってるのはプロレスじゃねえんだよ。
全然、客が入ってねえじゃん!」
すると前田は飛びかかり、アッという間に馬乗りになってフルスイングで武藤を殴り始めた。
すぐに周囲のレスラーが止めに入った。
その中に船木誠勝もいて、通りかかった星野勘太郎に
「大変です。
なんとかしてください」
と頼んだが、星野はそのまま通り過ぎた。
次に藤原喜明に
「助けてください」
と頼むと、藤原はいきなり前田の顔をサンドバッグのように殴り始めた。
前田は相手が師匠の藤原だったので、目をつぶってそれを受けた。
それでなんとか収まったが、坂口征二が
「前田、オマエ、来い。
俺が相手してやる」
といって仰向けに寝転んだ。
前田は本気のストンピングを数発、蹴ったが当たらず、ツバをはきかけた。
これに触発されたのか、あちこちで争いごとが始まった。、
宴会場は修羅場と化し、加えて嘔吐する者が続出。
トイレの手洗いや小便器の排水にワカメがつまって流れなくなった。
トイレは階段の横にあったため6階から5階に向かう階段に水が伝っていった。
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蝶野正洋や獣神サンダー・ライガーは、騒ぎが起こるとすぐに退避。
前田に殴られた武藤と高田延彦は、2人で宴会場を出て話しはじめ、急接近。
高田は
「俺、すごくわかるよ」
といい、宴会場に戻って前田をつかまえて
「じゃんけんして勝ったら1発、殴る」
というゲームをはじめ、高田は前田をはがい絞めにして武藤が殴った。
多数のレスラーが冬だというのに上半身裸かTシャツになって、旅館の前の道路で飲み出したり、町に出て2次会に突入。
そのとき猪木はめちゃくちゃになった宴会場の掃除を手伝っていた。
松の家旅館は、従業員総出で掃除をして排水管のつまりを修理。
後日、壊れた焼肉台や交換した畳の代金、数十万円を新日本プロレスに請求し
「こんなに少ないはずはない。
もっとかかっただろうから請求書を出し直してくれ」
と良心的な対応を受けて、少しだけ上乗せした。
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九州での事件から2ヵ月後、1987年3月、新日本プロレスは、長州力ら維新軍の復帰を発表。
しかし全日本プロレスとの契約問題があり、すぐにリングに上がることはできなかった。
1987年4月7日、半年前に金曜20時から月曜20時に引っ越しさせられた「ワールドプロレスリング」は、さらに火曜20時に移った上に番組名も「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」に改名。
生中継をなくなり、山田邦子らお笑いタレントを起用しバラエティの要素を加えた。
その結果、10%あった視聴率は5%台に低下した。
6月、移籍発表から2ヵ月後、全日本プロレスの妨害で長州力はまだ上がれなかったが、それ以外の維新軍が新日本プロレスのリングに復帰。
6月12日、アントニオ猪木がIWGPを 4連覇すると長州は
「前田、おまえは噛みつかないのか。
今しかないぞ俺たちがやるのは」
と世代交代の闘争をアピール。
前田は
「誰が1番強いか決まるまでやればいいんだよ。
決まるまで」
と呼応した。
この後、全日本プロレスに契約違約金、レスラーにも多額の移籍金をを払って呼び戻した新日本プロレスは、UWF vs 維新軍 の抗争戦を展開させた。
10月、移籍発表から半年、ついに長州力が新日本プロレスのリングに復帰。
ファンは「前田日明 vs 長州力」がいつ行われるのか、心躍らせた。
しかしUWFファンにとって理想を求めて新日本プロレスを出て、経営破綻のために戻ったUWF勢と、カネのために離れカネのために戻った維新軍はまったく異質。
藤原喜明が長州力に関節技を極めて技を解く度に
「はい、1本!」
「長州、逃がしてもらったな!」
といい、長州のラリアットに藤原が沈むと歯ぎしりしながら
「長州、勝たせてもらったな」
とヤジった。
しかしアマチュアでオリンピックに出たことがある長州力は、まったく気にしなかった。
他のレスラー同様、UWFが真剣勝負にみせたプロレスであることを見抜いていたし、相手にケガばかりさせている前田日明は
「下手くそなプロレスラー」

「自分が強いと勘違いしている」
と思っていた。

前長蹴撃

11月19日、長州力&マサ斎藤&広斎藤 vs 前田日明&高田延彦&木戸修の6人タッグマッチが行われた。
8分過ぎ、木戸にサソリ固めをかけようとしている長州に、前田はリングに入り顔面に蹴った。
試合後、病院で前頭骨(頭蓋骨の前頭部)亀裂骨折、全治1ヵ月の診断を受けた。
新日本プロレスは、前田日明を無期限出場停止にした。
その理由として坂口征二は、
「プロレスのルール、レスラー仲間のルールを犯してケガを負わせた」
アントニオ猪木は
「打ち場所が問題。
パンチならナックルではなく拳の横の部分、肘なら鋭角なところからズラして打つのが暗黙のルール」
とコメントした。
一方、前田日明が公に謝罪することはなかった。
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長州蹴撃事件から1ヵ月後、1987年12月18日、新日本プロレスは経費削減のためにUWFとの業務提携を打ち切り、UWF勢には翌年3月までの短期個人契約を迫った。
藤原喜明と木戸修は即、契約書にサイン。
前田日明、高田延彦、山崎一夫はいったん保留したが、1週間後にサインした。
一方、中野龍雄、安生洋二、宮戸優光らUWFの若手が新日本プロレスからもらうギャラはわずかだった。
彼らはチャンスと活躍の場と求め、何度もUWF社長の神新二にUWFの再興を訴えた。
アントニオ猪木のファンだった神新二は、1983年2月、タイガーマスク人気で絶頂にあった新日本プロレスに入社。
配属先は企画宣伝部で、与えられた仕事は営業本部長、新間寿の運転手兼カバン持ち。
新日本プロレスを追われた新間がUWFを立ち上げると自然とそちらに移り、夜中、警官の目を避けながら大量のポスターを貼ったり、宣伝カーの乗ったり、販売店にチケットを配ったり、ときにはリングアナウンサーもやった。
1985年11月25日、スタッフから退陣を迫られた浦田昇社長は、借金だけを引き取って辞めたが、彼と佐山聡を失ったUWFはたちまち経営難に陥り、スタッフは離散。
残ったのは神新二と神に誘われてUWFに入った大学の同級生、鈴木浩充の2人だけだった。
新日本プロレスに参戦したUWF勢のファイトマネーはUWFの口座に振り込まれ、神と鈴木はそれをそのままレスラーに渡し、自分たちの給料と世田谷に借りている事務所(高田延彦ファンクラブ会長、鈴木健が経営する文具屋の事務所を半分、間借り)の経費は、UWFのグッズを売って稼いだ。
神は、税金対策のために1987年2月にUWFを正式に株式会社として登記。
神が社長、鈴木は専務となった。
資本金1000万円は、UWF長野後援会長の高橋蔦衛、道場を提供してくれた寺島幸男に出してもらい、2人には役員になってもらった。
「何とかUWFを再旗揚げしてください」
「自分たちも活躍したい」
何度も中野龍雄、安生洋二、宮戸優光らにいわれ、ずっと断り続けていた神だったが、やがて
「もう1度やろうか」
と思い始めた。
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長州蹴撃事件から3ヵ月後、1988年2月15日、前田日明は新日本プロレスを解雇された。
するとファンは猛反発。
2ヵ月前、「アントニオ猪木 vs 長州力」が「ビッグバン・ベイダー vs 長州力」に変わったときも暴動が起きたが、今回も
「猪木は逃げた」
と批判。
また一般的なプロレスファンからすれば、サソリ固めをかけている長州の顔面を蹴るのは
「卑怯」
「最低の行為」
となるかもしれないがUWFファンにしてみれば
「顔を蹴った?
当然だろう」
「よけない長州が悪い」
となるわけで彼らの多くは前田日明の行動を容認していた。
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「週刊プレイボーイ」は、「前田日明に捧げる応援歌」と題し、プロレス好きの著名人のコメントを集めた。
ゲージツ家の篠原勝之、通称「クマさん」は、
「前田日明はプロレスを新しい方向につくってゆける唯一の男だ。
かつて力道山、馬場、猪木がそうだったように」
小説家の夢枕獏は
「今回、前田が長州にも新日にも最後まで謝らなかったこと、これは勲章です。
猪木が前田ととうとう闘わなかったこと、これも勲章です。
ファンは知ってますよ。
前田が誰よりも強いってことを」
そしてロックバンド、ハウンドドッグの大友康平は
「猪木さんの後継者として次のプロレス界のリーダーになる選手を新日本が追放するなんて信じられない。
こういうやり方って猪木を目指すストロングスタイルじゃないですね。
だってプロレスはあらゆる格闘技で最強だといっておきながら猪木を脅かすレスラーはいらないっていうんだから」
とコメント。
またハウンドドッグの所属事務所、マザーエンタープライズの福田信社長も
「前田が追放されるかもしれないって?
それなら独立して異種格闘技戦でもやればいい。
前田ならファンを呼べるよ」
と寄稿した。
そして福田信はUWFと面会を求め、再旗揚げについて必死に考えていた神新二と鈴木浩充は、

・試合数を月1回程度にする
・行けば必ず赤字になる地方は避け、都市部でイベントを行う

というプランを打ち明けた。
大きなロックイベントを成功させてきた福田は、従来のプロレスの演出の古さを指摘し、音楽、照明など演出面での協力を約束。
「やるしかない」
覚悟を決めた神新二と鈴木浩充は、親や親せきに借金し、再興の意志を前田日明に伝えた。
そして3月まで新日本プロレスと契約を結んでいたUWF勢にもコンタクト。
高田延彦、山崎和夫、そしてまだ無名の若手3名、中野龍雄、安生洋二、宮戸優光は応じたが、藤原喜明と木戸修は新日本プロレスに残った。
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1988年4月8日、UWFは、赤坂東急ホテルで会見を開き

・興行を再開すること
・旗揚げ戦は5月12日、東京・後楽園ホールで、大会名は「STARTING OVER」
・基本的に月1回、東京、札幌、大阪、福岡などの大都市を中心に興行を行っていく
・年2~3回、収容人員1~2万人の大会場で格闘技イベントの開催も予定している

と発表。
所属選手は、前田日明、高田延彦、山崎一夫、安生洋二、宮戸優光、中野龍雄の6人。
全員が20代だった。
前田は
「なぜ新生UWFをやることになったかといいますと、去年の事件(長州力顔面蹴撃事件)などもきっかけになったことはなったのですが、やはり前々からの、それこそ最初に新日本(プロレス)に入ったときの道場の雰囲気というのが自分の中にありまして・・・
ホントにプロレスの市民権を得るための努力や、ほかの格闘技者がみても納得できるようなものをリングでやりたい。
そうこうするうちに旧UWFで、そういうことが現実のものとして可能性があると認識するに至りまして、機会があればと、ずっと思っておりました。
今回、いろんな方の力によりまして、やっとここまでこぎつけました。
長年、仲間の間で温めてきましたことを実際の場で展開することによって、プロレス界のイメージや興行会社のあり方とか、選手育成の問題とかを1番、理想的な形で、経営の上に則った方法で追求していきたいと思います。
微力ながら、これからもがんばります」
と語った。
世田谷の道場の看板は「UWF ユニバーサルレスリングプロレス道場」から「格闘技道場 UWF」にかわり、ファンは、
「第2次UWF」
「新生UWF」
といって喜んだ。
一方、新日本プロレスは、UWF勢が去った後、「ワールドプロレスリング」の視聴率が7%を切って、火曜20時から土曜16時へ引っ越し。
全日本プロレスの中継も日曜22時30分に移動したため、プロレス番組がゴールデンタイムから消滅した。
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