【広沢克己】ヤクルト、巨人、阪神の三球団で四番を務めた長距離砲
2016年11月25日 更新

【広沢克己】ヤクルト、巨人、阪神の三球団で四番を務めた長距離砲

池山選手、古田選手らと共にヤクルトの主力として活躍後、1994年オフにFA宣言で巨人に入団。その後阪神に移籍。 三球団で四番を打ち、それぞれの球団で優勝を経験した広沢克己選手についてのまとめ記事です。

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●ヤクルトの黄金期を支える

明治大学時代、1984年に開かれたロサンゼルスオリンピックで野球日本代表チームの一員として出場し、金メダルを獲得。この時のチームメイトには和田豊、宮本和知、正田耕三、秦真司など後にプロで活躍する選手が沢山いました。
豪快なバッティングフォーム

豪快なバッティングフォーム

1984年のドラフト1位でヤクルトスワローズに入団。池山選手、古田選手と共に主軸を形成。
野村監督の下、ヤクルトの2度のリーグ優勝(うち1度は日本一)に貢献します。
先頭でペナントをもって一周する広沢選手

先頭でペナントをもって一周する広沢選手

ヤクルト在籍時に打点王のタイトルを2度獲得 (1991年、1993年)、ベストナインにも4度選出。 (1988年、1990年、1991年、1993年)このまま「ヤクルトの広沢」として球歴を終えるかと思われましたが…1994年オフにFA宣言し、1995年シーズンから巨人に移籍します。

●トラを獲ったつもりが…

広沢選手の本職は一塁手ですが、当時の巨人の一塁手には落合選手(1994年入団)、清原選手(1997年に巨人入団)らとポジションが重なる事もあり外野手として連続出場を続けていました。
落合選手と清原選手

落合選手と清原選手

「ポジションがかぶっているのにまだ獲る?」
としばしば巨人の補強は批判されますね。
ところが1996年開幕前に死球を受けて、骨折したことにより、連続出場も途切れます。
この年巨人はリーグ優勝を果たすのですが、広沢選手自身は38試合の出場に留まり、日本シリーズでもベンチ入りから外れる事に。巨人に移籍後、期待された成績を残せない広沢選手に対して心無い巨人ファンから「トラ(広沢選手の愛称)どころか猫じゃないか!」などとヤジられる事もしばしばあり、
この年のオフに広沢選手は自ら自由契約を申し出と言われるが、フロントに説得され残留。
復活を期した1997年は126試合に出場、打率.280とまずまずの成績を残します。
広沢選手の野球カード

広沢選手の野球カード

ところが、1999年4月29日の対ヤクルト戦(大阪ドーム)で川崎憲次郎投手からヒットを打ち出塁。すると、二塁への盗塁を試みるのですが、滑り込んだ時に右肩を脱臼。結局その後のシーズンを棒に振り、巨人を自由契約になります。

●代打の「仏様」

巨人を自由契約になった広沢選手に手を差し伸べたのは、かっての恩師、野村克也監督。
2000年に阪神に入団すると、主に代打の切り札として存在感を発揮します。チームメイトの八木裕選手が「代打の神様」と呼ばれていた事に対し、広澤選手の事を一部では「代打の仏様」とも呼ばれていました。ヤクルト、巨人のイメージが強かった広沢選手ですが、「お立ち台」で、阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」を熱唱した事をきっかけにして一気に阪神ファンに受け入れられます。
スタメンの4番打者として先発出場する事もまれにありました。
ちなみに2016年現在で、巨人と阪神の両球団で四番を打ったのは広沢選手のみです。

お立ち台にて…。

広沢選手がお立ち台で六甲おろしを歌います。
星野監督の下でも優勝経験のある代打の切り札として活躍。リーグ優勝に貢献します。
広沢選手は、所属した3球団全てで四番を打ち、そして所属した3球団全てで優勝を経験したのです。
福岡ダイエーホークスとの第7戦で本塁打を放ち、この年限りで現役引退します。

広澤選手 現役最終打席代打ホームラン

●広沢選手の今は?

現役引退後は、2006年に阪神の一軍打撃コーチに就任(2008年オフに退団)。
その後は関西地方の野球中継を中心に情報番組のテレビに出演しています。
関口宏のサンデーモーニングにて

関口宏のサンデーモーニングにて

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