UWF   そして復讐の団体は誕生した
2022年3月21日 更新

UWF そして復讐の団体は誕生した

「蛇の穴」ビリー・ライレージム、カール・ゴッチ、力道山、アントニオ猪木、藤原喜明、佐山サトル、前田日明、高田延彦、猪木舌出し失神事件、アントンハイセル事件、新日本プロレスクーデター事件、,タイガーマスク引退、1984年にUWFができるまで色々なことががありました。

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28歳の猪木は女優の倍賞美津子と結婚していた。
馴れ初めは先輩の豊登が自分の車(日産の最高級車、センチュリー)を
「こんな車に乗りやがって」
と女子3人が蹴飛ばすのを見つけたこと。
その中の1人が倍賞美津子だった。
豊登は彼女たちを食事に誘った上、家まで送り届け、その後も連絡を取り続けた。
猪木は豊登に連れられて倍賞美津子と初めて会い、その明るさに惹かれた。
出会いから5年後、1億円をかけて式を挙げ2人は結婚。
その1ヵ月後、会社を改革をしようと動いていた猪木は日本プロレスから追放されてしまった。
「迷わず行けよ」
と行動主義のアントニオ猪木は、2人の新居となるはずだった一戸建てを道場に改造した。

1971年11月、結婚
12月、日本プロレス追放
1972年1月、「新日本プロレス」を会社登記
3月、旗揚げ戦

という異例のスピードで新団体立ち上げを進めていったが、カール・ゴッチへの協力依頼もその中の1つ。
新日本プロレスの所属選手は、アントニオ猪木、山本小鉄、木戸修、藤波辰巳、北沢幹之、柴田勝久のわずか6人のみ。
旗揚げ戦前に募集した練習生はあまりの厳しさに逃げ出してしまった。
メジャーな外国人レスラーは、日本プロレスと国際プロレスに抑えられているため、カール・ゴッチがブッキング。
サーカスのようなプロレスにウンザリしていたゴッチは、猪木がやろうとしているシリアスなプロレスの実現のため、実力のある選手を呼んだ。
そして旗揚げ戦は、月曜日の18時半、大田区体育館でスタート。
全6試合。
その中にカール・ゴッチ vs 猪木もあった。
会場は5000人満員でひとまず成功したが、以後、テレビ放映もないまま苦戦が続いた。
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1972年11月2日、旗揚げ戦から8ヵ月後、藤原喜明が新日本プロレスに入門した。
高校卒業後、板前をしながら金子武雄(重量挙げ全日本ライト級チャンピオン、日本プロレス所属のレスラー、セメントマッチを仕掛けられ腕を骨折し引退)のジムで練習を続け、新日本プロレス入り。
デビューは入門10日後、和歌山での藤波辰巳戦。
異例のスピードデビューながら23歳の遅咲きのデビュー。
1年後には6歳上の猪木さんの付き人になり、それは1984年にUWFに移籍するまで10年以上続いた。
藤原喜明は合同トレーニングの後、猪木と特別練習をした。
「考えてみたら、人の2倍、3倍、練習していたよな。
そのおかげだな。
俺のヒザはボロボロだよ」
そしてカール・ゴッチに出会い、衝撃を受け、関節技とレスリングを学んだ。
「 当時、若手のコーチ役は山本小鉄さんで、その指導は非合理的というか、スパーリングやっていて 『 これ、どうやって極めるんですか?』って聞くと『根性で極めろ』って。
もちろん非合理的な指導も必要なときもありますが、それを聞いたときは「この人、大丈夫かな」と思いました。
それで入門してしばらくしてゴッチさんの指導に接して「あっこれは本物だ」って感じたんです。
ゴッチさんは日本語もしゃべるんだけどめちゃくちゃなので、それで話されるとわけがわかんなくなる。
ですから基本的には簡単な英語でやりとりしていましたよ。
1日にいくつも関節技を教わるんだけど覚えきれなくなる。
あるとき、ハッと気がついて、1日に1つだけ教えてもらったことをノートに克明に書き残して、それを確実に覚えていくようにしたんです。
オレは頭が悪いからものごとを覚えるのにすごく時間がかかるんですよ。
だけど1度覚えるとずっと覚えている。
高校時代のことだってちゃんと覚えている。
オレは工業高校の機械科で、得意な科目は体育が5で、応用力学、機械工作が5。
これはどういうことかというと運動神経がまあまあいい上に力学、つまりテコの原理がわかっていて工作が上手、つまり手先が器用なんですよ。
だから関節技を習得するのにピッタリだったんだな。
あともう1つ。
骨が太い」
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旗揚げ戦から1年後、テレビ朝日が新日本プロレスの試合を放送することになった。
カール・ゴッチは手紙や電話で選手をブッキングし、コーチ、セコンド、タイトルマッチの立会人として来日することも多く
「かつてプロレスは相手をねじふせ、マットに這わすことに全力を集中した。
しかし近頃はダンスやファッションショーにまでなり下がり、現在は悪貨が良貨を駆逐する時代になってしまった。
良貨が悪貨を打ち破っていく時代が来て欲しい」
と訴えた。
しかしゴッチが呼ぶのはレスリングはできるが客は呼べないレスラーばかり。
猪木はゴッチと理想を共にしていたが、会社経営を優先させ、観客を集めるためにロサンゼルスで新しいブッカーを雇った。
そしてカナダ、トロントの2流のベビーフェイスだったタイガー・ジェット・シンと流血戦をしたり、ストロング小林との日本人対決、大木金太郎との力道山時代の同門対決など話題を集める試合を行った。
そして新日本プロレスの経営が安定するとゴッチは冷遇され始め、
「シリアスなプロレスをやる団体をやるといっていたのに1年経つと元通りさ」
と嘆いた。
アントニオ猪木とは5回対戦し、3勝2敗のゴッチだったが、アメリカに家を買って日本を離れた。
フロリダ州、タンパ北部の小さな町、オデッサは、湖が多くゴッチの家も湖畔にあった。
書棚に宮本武蔵の「五輪書」、新渡戸稲造の「武士道」、笹原正三(メルボルンオリンピック、フリースタイルレスリング、フェザー級金メダリスト)の「サイエンティフィック・アプローチ・トゥ・レスリング」など世界各国の武道・格闘技関連、そして人体やトレーニングに関する書物が並んだ。
車が2台入るガレージには、バーベル、ダンベル、トレーニングベンチ、インドのメイス(長い鉄棒の先に思い鉄球がついたトレーニング器具)、イランのミリィ(棍棒のようなトレーニング器具)などが置かれトトレーニングルームとなった。
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しかし「燃える闘魂」は決してダテではない。
まず誰よりも練習をやった。
練習第一の猪木は、新団体を立ち上げに際して、まず道場を建て、所属レスラー全員に合同練習を課した。
道場に猪木が入ってくると空気が一変し、一瞬の気の緩みも許されなくなるという。
「前の晩も練習やら試合はもちろん、洗濯やらの雑用もある。
疲れていたから早起きはきつかった。
毎朝、30分ぐらいかな、走る。
ああ、終わったって思うとスクワット。
毎日嫌になるぐらいやっているんだよね。
でも一緒にやらなくちゃいけない」
(藤原喜明)
遠征中も必ず練習が行われ、朝は晴れていればランニング、雨なら風呂場でスクワット1000回。
午後も試合開始30分くらい前まで試合用のリングでスパーリングや会場後方でバーベル、ダンベルを使ってトレーニングしてから客を入れた。
あるとき3週間休みなしで巡業があり、後半に入るとみんな疲れて合同練習に参加しなくなったが、猪木は1人で黙々とスクワット。
そして
「集まれ!」
と号令をかけ、リングの周りに並べ
「やる気がないなら帰れ」
といって全員を殴った。
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若手は新日本プロレスの道場に隣接する合宿所に住んだ。
そして8時半起床し、掃除などをして10時から合同練習開始。
まず全員がリングの周囲を囲んでスクワット、腕立て伏せ、縄跳びなどのトレーニングを1時間半から2時間行う。
夏は40度を超え、スクワットをやると汗だまりができる。
次はリングの上でストレッチ、腹筋、ブリッジ、受け身、タックル、ロープワークなど基本技術。
それが終わるとスパーリングとなる。
最大で4組8人がリング上でひしめくため、自然と寝技多くなる
関節技あり、締め技あり、フォールなしのサブミッションレスリング
これを道場ではスパーリングと呼ばず
「セメント」
あるいは
「ガチ」
「ガチンコ」
と呼んだ。
プロレスには台本があり、勝敗は事前に決まっている。
プロレスラーの目的は勝利ではなく、観客を興奮させ楽しませること。
ミュージシャンが楽器や演奏の練習したり、演劇で演技やセリフの練習をするように、本来、プロレスラーは技のかけ方、受け方を練習をする。
パイルドライバー、バックドロップ、ボディスラムなどはかける側と受ける側の協力している。
4の字固めなどの関節技も一致協力して技をつくっている。
一見派手なパンチやキックも急所を避け、受ける側は、逃げることなく受ける。
そして場外乱闘や凶器攻撃も演出もある。
しかし新日本プロレスは、基本的にトレーニングとサブミッションレスリングのスパーリングだけ。
試合のケツ(最後の勝敗)は決まっていたが、試合中はすべてアドリブでセメント(真剣勝負)もやった。
試合中にセメントの要素がないと
「何やってるんだ!」
と怒られた。
この「通常のプロレス+セメント」というのが新日本プロレスの特徴で、リングには危険な緊張感が漂っていた。
「ストロングスタイル」
を標榜する猪木は、チャレンジすることが大好きで、若手がリングの上で挑戦的なことをやったり、それを失敗したりしても責めない。
しかし気合が入っていない試合をすれば怒り、試合中でも竹刀を持ってリングに上がって滅多打ちにすることもあった。
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1974年、極真空手 の第6回全日本大会に、アントニオ猪木をはじめ数人のレスラーが参加申し込み。
「ある雑誌(少年マガジン)で広告をみまして・・・
新しいルールによる真剣勝負と謳ってあり、ボクシングでもキックでもプロレスでも、誰でも参加できるということを読んだものですから、カッと血が熱くなりまして・・・
でも考えてみるとスケジュールの調整がどうしてもつかないんで残念ながら諦めました」
(アントニオ猪木)
そして新日本プロレスは、ブラジルで興行を行ったが
「誰の挑戦でも受ける」
というアントニオ猪木の言葉を聞いて、ボクシングと柔術をバックボーンに持つバーリ・トゥード(なんでもあり)最強の戦士、イワン・ゴメスが、すさまじい距離を運転してやってきて
「挑戦したい」
といった。
イワン・ゴメスは172cmと小柄ながら全身筋肉。
このハイリスク、ローリターンな戦いを猪木が受けるはずがなく、逆に新日本プロレスの営業本部長、新間寿は、
「月給1500ドル(約45万円)+試合給」
という条件でスカウト。
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンレスリングに興味を覚えたゴメスは、それに応じ、来日。
レスリングのトレーニングをしつつ、レスラーに自身のスタイルを教えた。
基本的にチョークスリーパーとヒールホールドしか使えない、強いが地味なゴメスはずっと前座で、アントニオ猪木と戦うことはなかった。
藤原喜明は、イワン・ゴメスからヒールホールドを学んだ。
後にサンボの麻生秀孝から膝十字固めを学ぶなど、足関節においてはカール・ゴッチをしのぐといわれ
「関節技の鬼」
と恐れられ、必殺のわき固めは
「フジワラ・アームバー」
と呼ばれた。
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1975年7月、藤原喜明から3年遅れで、佐山サトルが新日本プロレスに入門。
山口県下関生まれ。
子供の頃からスポーツ万能で身体能力が高く、アントニオ猪木を崇拝し
「プロレスこそ真の格闘技」
「プロレスこそ最強の格闘技」
と信じ、プロレスラーになることを決めた。
中学では柔道部に入り2年で黒帯をとったが、バックドロップやスープレックスのような裏投げを繰り出していた。
中学を出たら新日本プロレスに入るつもりだったが、教師と親に
「高校だけはいけ」
「アマチュアレスリングでオリンピックに出てからプロになれ」
といわれ、レスリング部のある高校に進学。
山口水産高校レスリング部の顧問は素人だったが、柔道の経験だけで1年生で国体の候補選手になった。
県の合宿で長州力(ミュンヘンオリンピック、フリースタイル90kg級、韓国代表)を育てた桜ヶ丘高校レスリング部監督、江本孝允に指導を受けた。
短期間ながら初めて本格的なレスリングを学び、合宿の最後に県代表を決める選考スパーリングが行われ、インターハイ4位と対戦し、レスリングを始めたばかりの1年生はフォール勝ち。
その後、1年生と2年生が対象の新人戦に75kg級でエントリーしたが、ほかの選手が佐山を避けたため出場者は1人だけ。
山口県レスリング協会は
「1試合も戦わないまま優勝させるわけにはいかない」
と1階級下の1位、2位、3位、そしてヘビー級の1位、の4人と試合をさせ、その成績をみて75kg級の優勝を認めることにした。
そして佐山は4人にフォール勝ち。
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佐山サトルは、このまま高校でレスリングをやっていても仕方がないと1年で高校を中退。
父親のコネで千葉県の工場で住み込みで働きながらチャンスを待ち、半年後、後楽園ホールで行われた新日本プロレスの入門テストを受け、

スクワット500回、
ブリッジ3分
スパーリング

を難なくこなしたが、
「体が小さい」
という理由で不合格
3ヵ月後、再びテストを受け、合格。
柔道やレスリングは、いかにして相手を投げるかだったが、新日本プロレスの道場で行われるスパーリング、「セメント」は寝技。
一瞬で極まり、1度極まれば逃げることができないサブミッションにのめりこんでいった。
トレーニングも徹底的にやり、100m走 12秒7、ベンチプレス160kg、背筋力 293kg、腕相撲は坂口せいじについで2位とバケモノじみた身体能力を誇った。
常にノートを持ち歩き、トレーニングや練習を記録し、思いついたことを書きとめ、熱心に研究した。
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入門8ヵ月後、新潟県長岡市で興行が終わった後、ホテルで藤原喜明とあるレスラーが口喧嘩を始めた。
同じ部屋にいた、まだデビュー前の佐山が
「そんなこといっても藤原先輩はあの先輩に勝てないじゃないですか」
というと藤原喜明は
「お前はプロレスのことを何も知らない。
試合で自分は負けてやったんだ。
俺にボディスラムをかけてみろ」
といった。
佐山がかけてみるとビクとも動かない。
「もう1度やってみろ」
といわれやってみると今度はかんたんに持ち上がった。
「プロレスは真剣勝負の世界なんかじゃない。
お互いが協力するショーだ」
プロレスは真の格闘技で真剣勝負をしていると信じていた佐山サトルは、天地がひっくり返るような衝撃を受け、呆然とした
同時にプロレスラーに抱いていた畏怖の念も消し飛んだ。
ただしカール・ゴッチやアントニオ猪木、藤原喜明、イワン・ゴメスなど一部の人間は別。
彼らの関節技が本物であることは体で理解していた。
佐山は
「真の格闘技は打撃に始まり、組み合い、投げ、極める」
そう紙に書いて寮の部屋に貼った。
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1976年 アントニオ猪木は異種格闘技戦を開始。
プロレスは、大相撲やボクシングに視聴率で引けをとらないのに新聞でもニュースで試合を結果を報道されることはない。
力道山の時代から八百長、ショーと思われ、スポーツとして認知されていなかった。
この見下された状況を覆し、プロレスの強さを認めさせるためには、ボクサー、空手家、柔道家、キックボクサーなど真剣勝負をやっている競技のトップクラスと戦って勝つしかない。
「誰とやっても負ける気がしない」
「誰の挑戦でも受け」
「プロレスこそ最強」
「プロレスこそキングオブスポーツ」
そう語る猪木にファンはロマンを感じた。

2月6日、1972年ミュンヘン・オリンピック柔道、93kg超級、無差別級金メダル、196cm、120kg、ウイリエム・ルスカは、その投げ技と寝技は圧倒的だった猪木は張り手からコブラツイスト。
柔道着を脱ぎ捨てたルスカにドロップキックからバックドロップ3連発。
20分35秒、TKO勝ち。

6月26日、ボクシング世界ヘビー級チャンピオン、スーパースター、モハメッド・アリとの戦いは、アンバランスなルールのスキマをついて猪木がスライディングキック(アリキック)に終始し、15Rドロー。
単調な内容に「世紀の凡戦」といわれたが、アリは左脚の治療のため入院し、猪木は何億という借金を背負い込んだ。

12月12日、パキスタンの英雄、アクラム・ペールワンから挑戦状が届き、猪木は敵地、カラチ・ナショナル・スタジアムに乗り込んだ。
3R、1分5秒、アーム・ロックが完全に極まったのにギブアップしないペールワンに、猪木は、その腕をへし折り、ドクターストップで勝利。

このうちモハメッド・アリ戦、アクラム・ペールワン戦はリアルファイトだった。
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