【角三男】と言えば、サイドスローの魔術師!左バッターは恐れた存在です。
2016年11月25日 更新

【角三男】と言えば、サイドスローの魔術師!左バッターは恐れた存在です。

80年代の巨人を担った一人で、抑えの切り札の一人でした。左バッターが出ると、必ず角が登場していたような記憶があります。そんなサイドスローの名手角三男の凄さに迫ります。

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王巨人の方程式を作った一人として活躍した角三男

角三男(すみ みつお)

角三男(すみ みつお)

1956年6月26日生まれ
身長183cm、体重86kg
左投げ左打ち
ポジション:投手

最優秀救援投手も獲るほどの、抑えのエースとして巨人を支えてきた。左打者の抑えとしては、角をおいて他には出てこず、火消しの方程式を作った功労者である。

角三男の獲得タイトルや主な表彰と記録

最優秀救援投手:1回 (1981年)

新人王 (1978年)
ファイアマン賞:1回 (1981年)
後楽園MVP賞:1回 (1981年)

オールスターゲーム出場:2回 (1981年、1983年)

角三男のプレースタイルは・・・・。

左のサイドスローで火を消しまくる男

左のサイドスローで火を消しまくる男

セットアッパーやワンポイントももちろん。リリーフとして大活躍し、1981年には8勝20セーブと優勝に大きく貢献するほどの大投手である。
サイドスローにフォームを変更してからは、自身の課題であった制球難を克服し、巨人の方程式として活躍することが出来たのです。

角三男の生い立ちとプロに入るまで

鳥取県の米子市に生まれ、米子の美保中学校から米子工業高校を経て、三菱重工三原に入社します。1976年には都市対抗野球の補強選手として、広島マツダを準決勝進出させるなど、大いにチームに貢献します。

角盈男(元三菱重工三原)の始球式 第84回都市対抗野球 準決勝 20130722 - YouTube

新日鐵住金かずさマジック(君津市) 対 JR東日本(東京都) 第84回都市対抗野球 準決勝 東京ドーム
翌年の都市対抗野球でも大活躍し、1976年のドラフトで巨人に3位指名を受け、プロ入りすることになります。

プロ入り後、制球難を苦にあのサイドスローを手に入れることに

1年目の1978年に5勝7セーブで新人王を獲得。翌年は制球力の悪さが顕在化し不調に陥ったが、その年のオフにサイドスローに転向して才能が開花した。球速こそ落ちたものの、課題だったコントロールが向上したことから頭角を現す。

懐かしいプロ野球 ちょっとマニアックな選手の記録映像 角盈男 - YouTube

制球力に課題があるため完投が期待できず、先発投手としては難があったものの、変則的なフォームでタイミングが取りづらいことや地肩が強く連投が利く特長を生かして、早くから抑えのエースとして活躍、1981年には8勝20セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得して、チームのリーグ優勝にも貢献した。しかし、日本ハムファイターズとの日本シリーズでは、第1戦で同点の9回裏にリリーフで登板するも井上弘昭にサヨナラ安打を打たれ、敗戦投手となった。
 (1615064)

他方、リリーフとしての長きにわたる貢献により、他球団からのマークにあって研究され、またヒジを壊しやや低迷し、自身の制球難からの救援失敗などもあり、1986年はリリーフエースの座を鹿取義隆に譲る。右サイドハンドの鹿取に対し、左サイドハンドの角はセットアッパーやワンポイントリリーフとして重用され、長く巨人のリリーフ陣の核として活躍した。王貞治監督時代の勝利の方程式「角-鹿取-サンチェ」は流行語にもなっている。

無償トレードで日本ハムに・・・。そして、交換でヤクルトに・・・。

1989年、シーズン半ばに左腕投手が不在で悩む当時の日本ハムの監督。近藤貞雄が巨人の藤田元司監督に直接頼み込んだことで実現したトレードである。

日本ハムに移籍した角は、リリーフではなく、先発投手として出場したことから423試合連続リリーフ登板の記録が途絶えてしまいます。思うような成績は残せず、通算43試合の出場。3完投という記録を残す結果となりました。
ファイターズ時代の角三男

ファイターズ時代の角三男

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