2年目以降の不調
肘の怪我との戦い
1年目の投げすぎがその後の与田を苦しめることになる。翌1991年は、前年の疲れからか球威が落ち、ストッパーの座をルーキーの森田幸一に明け渡すこととなった。
防御率は3.18ながら0勝3敗2セーブ。とても満足のいく数字ではなかった。
3年目(92年)は41試合に登板し、2勝5敗23セーブの成績を収めて、復活の兆しを見せた。ところが、4年目(93年)に右ヒジを痛め、わずか15試合の登板(1勝3敗3セーブ)に終わると、与田の辛い故障との闘いが始まる。
復活を期し、阪神にテスト入団
その後、怪我に苦しむが手術などを乗り越え34歳にして阪神にテスト入団する。
その挑戦の姿勢は「リストラの星」と呼ばれ大きな共感を得る。
阪神に入団した2000年はオープン戦で好投するも、やはり怪我に苦しみ、同年をもって現役を引退します。
入団1年目のインパクトは、剛球投手・与田の真骨頂でした。
しかし、同時にそれは諸刃の剣だったんですね。
「怪我さえなければ」と必ず言われる投手ですが、記憶には強烈に残った名投手だったと思います。
引退後は、解説やWBCの投手コーチ等も務められています。
入団1年目のインパクトは、剛球投手・与田の真骨頂でした。
しかし、同時にそれは諸刃の剣だったんですね。
「怪我さえなければ」と必ず言われる投手ですが、記憶には強烈に残った名投手だったと思います。
引退後は、解説やWBCの投手コーチ等も務められています。