12月19日から国立科学博物館で始まった「南方熊楠生誕150周年記念企画展南方熊楠-100年早かった智の人-」。
南方 熊楠(みなかたくまぐす 1867年(慶応3年)~1941年(昭和16年))は自分の勉強領域の偉人です。
南方 熊楠(みなかたくまぐす 1867年(慶応3年)~1941年(昭和16年))は自分の勉強領域の偉人です。
南方 熊楠とは
和歌山生まれで、小さい頃から『和漢三才図会』や『本草綱目』、『諸国名所図会』などを写筆する記憶力と画力を発揮。上京して共立高校(現・開成高校)を経て大学予備門(現・東京大学)に入学するも落第して中退。その後色々を経て1982年(明治25年)にイギリスに渡り、科学雑誌『ネイチャー』への論文寄稿がきっかけとなり大英博物館で働くことに。その後、人種差別に憤慨してちょいと暴行事件を起こして博物館を出入り禁止となり帰国。日本での活動が始まるー・・・
「知の巨人」
そんな熊楠さんがつまり何を研究していた人なのかというと、同博物館のサイトには” 南方熊楠は、森羅万象を探求した「研究者」とされてきましたが、近年の研究では、むしろ広く資料を収集し、蓄積して提供しようとした「情報提供者」として評価されるようになってきました“とあります。色々の行動や発言が当時の感覚では「飛びぬけていた」感もあり、多くの逸話も残っておりますが、一言で表現するならば「知の巨人」なのだと思います。
とはいえ、ここは民俗コネタをご紹介するコラムですから、民俗学的な側面だけを。
とはいえ、ここは民俗コネタをご紹介するコラムですから、民俗学的な側面だけを。
日本民俗学の祖と称される柳田國男との文通
ひとつは1906年(明治39年)に発布された神社合祀令に対して行った神社合祀反対運動が有名です。神社合祀令とは、大雑把に言うと複数の神社を一定のルールでひとつに強制的に統合させ、1つ意外を廃止することで国全体の神社数を減らす政策です。本来それぞれの神社にそれぞれの神様、土地、歴史があるにも関わらず行政的に予算削減の狙いで数を減らすもので、これに対し、熊楠は猛反対。その意見「神社合祀に関する意見」などもあり、1910年(明治43年)以降には急激な合祀は終わります。
そして翌1911年(明治44年)、日本民俗学の祖と称される柳田國男との文通が始まります。当時既に学術雑誌などに日本の民俗についての論考を発表していた熊楠に柳田から手紙を出したのがきっかけです。柳田は1910年に岩手県遠野の民話を集めた説話集『遠野物語』を発行したばかり。1913年(大正2年)まで続いた文通は、熊楠170通超、柳田74通・・・この年に実際に二人は田辺で会っているのですがこの時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したそうです(苦笑)その後民俗学の捕らえ方の相違から文通は途絶えますが、柳田国男は熊楠のことを「我々の仲間はみんな日本民俗学最大の恩人として尊敬している」と記している“と南方熊楠記念館のサイトに書かれているように、柳田は熊楠を最大評価しておりました。
民俗学との出会いとしては、この柳田との逸話が一番有名だと思いますが、ココでは敢えて別の研究家との文通をプッシュいたします。
それは岩田準一!
そして翌1911年(明治44年)、日本民俗学の祖と称される柳田國男との文通が始まります。当時既に学術雑誌などに日本の民俗についての論考を発表していた熊楠に柳田から手紙を出したのがきっかけです。柳田は1910年に岩手県遠野の民話を集めた説話集『遠野物語』を発行したばかり。1913年(大正2年)まで続いた文通は、熊楠170通超、柳田74通・・・この年に実際に二人は田辺で会っているのですがこの時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したそうです(苦笑)その後民俗学の捕らえ方の相違から文通は途絶えますが、柳田国男は熊楠のことを「我々の仲間はみんな日本民俗学最大の恩人として尊敬している」と記している“と南方熊楠記念館のサイトに書かれているように、柳田は熊楠を最大評価しておりました。
民俗学との出会いとしては、この柳田との逸話が一番有名だと思いますが、ココでは敢えて別の研究家との文通をプッシュいたします。
それは岩田準一!
10年間続いた男色文通
岩田準一(いわたじゅんいち 1900年(明治33年)〜1945年(昭和20年))。三重県鳥羽市生まれの画家、特に男色(男性の同性愛)の研究家で、彼の親友は推理小説家として有名な江戸川乱歩。乱歩も同性愛に興味があることで知られています。
さておき熊楠×岩田による男色文通は10年間続いております。1931年~1941年の間に交わされた内容はオタクレベルを超越した男色知識語りで頭が追い付かない(汗)
でも、時に親近感ある会話も。ある時は岩田から「『糞野郎』という言葉は近代にできたことばでしょうか?」など「糞」を罵声に使うことへの質問があったと思えば、熊楠からは「この文通で聞くのはちょっと違うかもだけど」的に「岩田くんの地域では鯨やシャチホコをエビスと言いますか?マンボウもエビスということあるし」などマンボウの落書き付きで手紙を出していたり。
さておき熊楠×岩田による男色文通は10年間続いております。1931年~1941年の間に交わされた内容はオタクレベルを超越した男色知識語りで頭が追い付かない(汗)
でも、時に親近感ある会話も。ある時は岩田から「『糞野郎』という言葉は近代にできたことばでしょうか?」など「糞」を罵声に使うことへの質問があったと思えば、熊楠からは「この文通で聞くのはちょっと違うかもだけど」的に「岩田くんの地域では鯨やシャチホコをエビスと言いますか?マンボウもエビスということあるし」などマンボウの落書き付きで手紙を出していたり。
このマンボウ談義は「柳田國男氏がこのあたり書いているだけど、彼の癖で言いちらし書きちらすから、今度多くの引用事例を出して徹底的に打ちのめしたいんだ」という熊楠からの手紙で終わります。打ちのめすと言い切ってる(笑)しかもこのマンボウ落書きが結構カワイイので、自分が持っている『南方熊楠男色談義―岩田準一往復書簡』(八坂書房 1991年)からパチリしておきます。
ということで、19日からの南方熊楠生誕150周年記念企画展南方熊楠-100年早かった智の人-」が楽しみです★
ということで、19日からの南方熊楠生誕150周年記念企画展南方熊楠-100年早かった智の人-」が楽しみです★
11 件