【小橋建太インタビュー(後編)】元祖・絶対王者「幾多の苦難を乗り越えて」
2020年3月10日 更新

【小橋建太インタビュー(後編)】元祖・絶対王者「幾多の苦難を乗り越えて」

幾多の怪我、病気を乗り越えて多くのプロレスファンを魅了し続けた「鉄人プロレスラー」小橋建太。波乱万丈なレスラー人生を不屈の精神で歩み続けた小橋さん、その真っ直ぐな生き方に迫ります。

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「はい。しかしその復帰戦で僕は左膝前十字靱帯不完全断裂を負ってしまい全治4か月の診断、再び長期欠場に入ることとなります。その間、一部からは“小橋はもう終わったな”といった声も聞こえてきました。それでも必ずチャンスはある、目の前が真っ暗になるときにでもチャンスはあるのだから自分を信じよう。その一心で怪我と向き合おうと。そしてこの年の7月、138日間の欠場を経て再びリングに戻ることが出来ました。」
ミド編)
まさに不屈の精神としか言い表すことが出来ません。この復帰の翌年2003年3月、小橋選手は三沢選手を破ってついにGHCヘビー級王座のチャンピオンに輝き、そこから絶対王者と呼ばれた2年間が始まります。数々の死闘を繰り広げた小橋選手でしたが、対戦したなかでとくに「この選手は強いぞ」と感じた相手はいましたか?
「これは正直、一人には絞れないんです。闘った相手はみんな強かった。ベストバウトはたくさんありすぎて絞れません。ファンの方それぞれが“この試合だ”“この人だ”と思ってくれるのが嬉しいんです。」
ミド編)
有難うございます。もうひとつ、読者の方から質問がありましてこれまでで「一番カッコ良い」と思った選手を挙げるとしたらいかがでしょうか。
「これはいまの僕が思うことですが、笑顔の似合う老人になりたいんです。師匠のジャイアント馬場さんは晩年、素晴らしい笑顔でした。そして最近そう感じるのがスタン・ハンセン。笑顔が素敵で充実しているのが分かるんです。闘っているときはそんなこと思いませんでしたけどね(笑。」

2006年、腎臓がん発覚

ミド編)
名実ともにノアマットの中心へ。とうとう時代を掴んだ小橋選手でしたが2006年には腎臓がんが発覚しました。
「たまたま健康診断で発見してもらうことが出来ましたが、当時はまだ30代でした。がんの手術は無事に成功したのですが手術前日の夜、医者の先生が撲の部屋に来て“小橋さんをプロレスに復帰させるために手術するのではありません、復帰じゃなく生きることを頑張らないと。生きていれば何でも出来る、生きましょう”と言われました。」
ミド編)
医者の立場から、真剣に小橋さんに向き合ってくれたんですね。
「はい、その先生にはいまでも定期的に診察をしていただいています。当時、腎臓がんから復帰を遂げたアスリートはいないと言われましたが、結果として僕は546日後に再びリングに復帰します。」
「残念ながら復帰した後も体は思い通りになりませんでした。手術は成功しても以後の食事は蛋白質が制限されていますから体を大きくすることが出来なくなりましたね。そんななかでも医者の先生には練習方法をどんどん質問したり、体にいいプロテインがあるか質問したり。“そんなのないよ、そんなことより早く引退しなさい”なんて言われましたけどね(苦笑。」
ミド編)
腎臓がんからの復帰はもちろんのこと、術後思うようにならない体と向き合いながらも小橋さんは何度もリングに戻ってきました。
2007年1月20日、両膝の手術を行う。
2008年9月9日、右腕遅発性尺骨神経麻痺、両肘関節遊離体により手術を行い、再び長期欠場。
2010年1月5日、肘部管症候群によりシリーズ欠場。
2012年2月19日、東日本大震災復興支援チャリティープロレス「ALL TOGETHER 〜もう一回、ひとつになろうぜ〜」で再び武藤とタッグを組み勝利するも、試合中に左脛骨骨折と右膝内側側副靭帯損傷ならびに右脛骨挫傷を発症、再び長期欠場に入る。
これだけ満身創痍な体なのに、2013年5月に引退するその試合までファンの目の前には常に強くて大きな小橋選手の姿が映っていました。なぜ、ここまで強い気持ちを保つことが出来るのでしょうか。

自分を信じて自分を諦めない

困難に直面したとき、自分を諦めなければそれを越えることが出来る。誰でもみんな、自分自身がやれると信じていれば。その気持ちを常に持ち続けることです。光がみえていないだけでチャンスは必ずあると信じて日々の積み重ねを継続する。物事は一気に好転することなんてありません、もしあったとしてもそれはまた一気に悪くなる。日々少しづつ積み重ねることは大変だけど、その経験が自分を強くします。」
「がんになってからの人生は色んなことがありますが、復帰戦後に日テレのアナウンサーからリング上で“今の気持ちをお聞かせください”とマイクを向けられて、ふと“男は40歳からです”と答えていたんです。そのときの自分が40歳だったからですね(笑。いま聞かれたら“男は50歳からです”と言うでしょうし、女性だったら“女は50歳からですよ”と言うでしょう。ふと出た言葉でしたけど、僕はそれが本質じゃないかと思っているんです。」
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「冒頭で“あの頃に戻りたいとは思わない”と話しました。若さは素晴らしいけど、年齢を重ねてからの人生の重みはまた格別です。あの時代に戻りたいという気持ちは一切ありません。でも、あの時代があったからこそ今がある。みんなもそうでしょう。ピンチの中にこそチャンスがあるし、いまが良い状態の人はその状態に奢らずにしっかり足元をみて。みんなが良い状態になれば、日本全体がもっと良くなる。そう思うんです。」
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数えきれないほどの困難と向き合って真正面から乗り越えてきた小橋さんの言葉に、読者の皆さんも勇気をもらえると思います。最後に小橋さんのこれからの目標をお聞かせ下さい。
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