via ja.wikipedia.org
予定より1時間も早い12時10分頃、三島由紀夫は森田と共に総監室に戻ります。三島は、よく聞こえなかったなと寂しそうに話したとか。益田総監には、天皇陛下に自衛隊をお返しするのに、仕方がなかったと話したそうです。
そして覚悟を決めた三島は、赤絨毯の上で正座をし、両手に持った短刀で気合いもろとも左脇腹に刺し、右へ真一文字作法で切腹したのです。しかし、介錯人を務めた森田は、師への尊敬が影響したのか、二度太刀を振り降ろしますが、うまく切断ができません。
そこで介錯を代わった古賀が、頸部の皮一枚を残して一太刀で切断を行いました。その後に小賀が、首の皮を胴体から切り離し、三島の割腹自決は完遂します。そして三島に続いて森田も、三島の隣りで切腹。よしの合図に合わせ、古賀が一太刀で介錯をしました。
両者の遺体を仰向けに寝かし、制服をかけて首を並べた、小賀・小川・古賀の3人に、おまいりをするように総監がすすめ、拘束を解かれた総監も合掌します。そして、黙って涙を流す3人に、思いきり泣きなさいと言い、自らも正座して瞑目合掌をされたそうです。総監のその後の会見において、国を憂い・自衛隊を思った末の行動だった。純粋な国を思う心は、私としては理解をしていると語っています。
そして覚悟を決めた三島は、赤絨毯の上で正座をし、両手に持った短刀で気合いもろとも左脇腹に刺し、右へ真一文字作法で切腹したのです。しかし、介錯人を務めた森田は、師への尊敬が影響したのか、二度太刀を振り降ろしますが、うまく切断ができません。
そこで介錯を代わった古賀が、頸部の皮一枚を残して一太刀で切断を行いました。その後に小賀が、首の皮を胴体から切り離し、三島の割腹自決は完遂します。そして三島に続いて森田も、三島の隣りで切腹。よしの合図に合わせ、古賀が一太刀で介錯をしました。
両者の遺体を仰向けに寝かし、制服をかけて首を並べた、小賀・小川・古賀の3人に、おまいりをするように総監がすすめ、拘束を解かれた総監も合掌します。そして、黙って涙を流す3人に、思いきり泣きなさいと言い、自らも正座して瞑目合掌をされたそうです。総監のその後の会見において、国を憂い・自衛隊を思った末の行動だった。純粋な国を思う心は、私としては理解をしていると語っています。
葬儀
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事件翌日の11月26日、首と胴体をきれいに縫合された2遺体は、お身内に引き渡されます。森田の遺体は、そのまま渋谷区代々木の火葬場で荼毘に付されたのですが、その死顔は安らかに眠っているようだったそうです。
三島の遺体は、パトカーの先導によって自宅に運ばれます。父親は変わり果てた息子の姿を思い、恐る恐る棺を覗いたそうです。しかし、三島の遺言通り、きれいに楯の会の制服を着ていて、胸のあたりで軍刀が握りしめられていたのです。遺体の顔も、まるで生きているようだったとか。これは警察官たちの三島由紀夫に対する気持ちで、普段から尊敬する先生のご遺体、特別の気持を込めて丹念に化粧したそうです。
葬儀は密葬で行われましたが、親族の他に川端康成・伊沢甲子麿・石原慎太郎・村松剛・松浦竹夫・大岡昇平・村上兵衛・堤清二・増田貴光・徳岡孝夫などといった早々たる皆さんが弔問に訪れています。16時過ぎに出棺、品川区の桐ヶ谷斎場で18時10分に荼毘に付されました。
三島の遺体は、パトカーの先導によって自宅に運ばれます。父親は変わり果てた息子の姿を思い、恐る恐る棺を覗いたそうです。しかし、三島の遺言通り、きれいに楯の会の制服を着ていて、胸のあたりで軍刀が握りしめられていたのです。遺体の顔も、まるで生きているようだったとか。これは警察官たちの三島由紀夫に対する気持ちで、普段から尊敬する先生のご遺体、特別の気持を込めて丹念に化粧したそうです。
葬儀は密葬で行われましたが、親族の他に川端康成・伊沢甲子麿・石原慎太郎・村松剛・松浦竹夫・大岡昇平・村上兵衛・堤清二・増田貴光・徳岡孝夫などといった早々たる皆さんが弔問に訪れています。16時過ぎに出棺、品川区の桐ヶ谷斎場で18時10分に荼毘に付されました。
三島由紀夫は今の時代にこそ必要だった
三島由紀夫 没後50年 生前最後の手紙につづられた言葉 /Mishima pondered on the Socrates’ death before Harakiri suicide.
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三島由紀夫の割腹自決があったのは、50年以上も前のこと。隣国からの脅威に晒される日々の日本。思うように動けない自衛隊の状態を見て、天国の三島由紀夫は、苦々しい思いで日本を見ていることでしょう。50年たっても憲法改正すらできない日本という国、三島由紀夫という人物は生まれてくるのが早すぎたと、残念に思うばかりです。
たぶん、いつの日か、国が平和とか、国民総生産とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい国家意識の守護神と目されるだろう。いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、それを成し遂げたことを知ることができる。三島の生涯はある意味でシュバイツァー的生涯だった。
— エドワード・G・サイデンステッカー「時事評論」