1991年1月19日、ハンセンを破り、三冠ヘビー級王者(第8代目)に返り咲く。この年は三沢、川田利明、スティーブ・ウィリアムスが鶴田の三冠王座に挑戦するが、全て完勝といっていい内容で退けている。
超世代軍の旗手、三沢光晴との激闘
天龍が全日本を去った後、若手の三沢光晴が超世代軍をひっさげて、打倒鶴田に燃えます。その三沢が1991年4月18日日本武道館で三冠王者の鶴田に初めて挑戦しました。
天龍が新天地を求めて全日を離脱した後、ライバルとして名乗りをあげたのは弟子の三沢光晴であった。1990年6月、三沢はシングルマッチで鶴田越えを果たすが、この試合は「丸め込み」合戦を制してのもので、真に鶴田越えを果たしたとは言い難いものだった(試合後、勝った三沢はリング上で倒れこんだままで、負けた鶴田はレフェリーに抗議している)。
三沢は最初で最後の涙をリングで流し、観客が総立ちであった。三ヶ月後、三冠ヘビー級王座への挑戦権をかけて再度三沢と戦うが、今度は鶴田がジャンボラリアットからのバックドロップ・ホールドで三沢から完璧な3カウントを奪っている。
【名勝負】プロレスダイジェスト 1991-04-18 ジャンボ鶴田vs三沢光晴 vol.3 - YouTube
三沢対ジャンボ鶴田3度目の決戦。当時のプロレス人気が歓声の大きさでも分かる。
via www.youtube.com
この頃、三沢はデビュー10年目を間近にしておりメキメキと頭角を表していた。その三沢をしても、ジャンボ鶴田の牙城を崩す事はできず、必殺技バックドロップ連発の前に沈みます。まさに、存在自体が反則と呼ばれた由縁を感じる事が出来る試合でありました。
via blogs.c.yimg.jp
伝説となったジャンボの強さ
最後のタイトルマッチとなったのは、1992年10月7日の世界タッグ選手権だった。田上と組み、殺人魚雷コンビことゴディ&ウィリアムス組の挑戦を受けた。
この年は古傷の左足首の故障で1シリーズを全休したことに加え、1月にはハンセンに敗れて3冠ベルトを奪われる、チャンピオン・カーニバルで同ブロックとなった三沢の後塵を拝して優勝戦進出を逃す(結果的に三沢とは最後の対決となった試合で時間切れの引き分けに終わり、苦手のゴディにも引き分けていたため、三沢とは勝ち点1の差でカーニバル敗退)など、前年の怪物振りと比べると陰りも見えていた。
だが、この年に急成長を見せていたパートナーの田上が体調万全ではない鶴田をカバーする大活躍を見せる。田上はこの年に開発した喉輪落としでゴディからフォールを奪い、王座の防衛に成功。田上の躍進を見届けた鶴田は、結果的に第一線を退くこととなった。
最強を誇ったジャンボ鶴田ですが、病魔に倒れてしまいトップレスラーの座から退きます。
1992年11月にB型肝炎を発症したことを告白、長期入院を余儀なくされた。元々鶴田がB型肝炎ウイルスキャリアであることは1985年8月の時点で判明しており、当時の主治医によるインターフェロン療法がうまくいかず症状を悪化させたため、と後に保子夫人が著書で述べている。
1993年の復帰後も、再発の危険性があるため、極端に負担のかかる第一線に立つことはなくなった。鶴田自身、その時の様子を「棺桶に片足を入れた状態」と評している。「一昔前なら棺桶に両足を入れていた(つまり、死んでいた)」とも発言している。
これでメインイベンターとしての鶴田の価値は消え去ったのだが、それでも馬場は鶴田の給料を下げることをしなかったという。入院中に読んだ雑誌に女子プロゴルファーの桝井映里が大学院に入学した記事があったことがきっかけとなり、教授レスラーへの道を目指す。
1994年10月に筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻に合格し、遂には非常勤講師ながら大学教員となった。並行して大会場でのスポット出場という形で現役プロレスラーを継続する。ほとんどの試合は馬場と組んでの6人タッグであった。
事実上、ジャイアント馬場とラッシャー木村らが率いるファミリー軍団入りをしたジャンボ鶴田は休憩前の前座試合で師匠の馬場が提唱する「明るく楽しく激しいプロレス」の「明るく楽しく」を観客へ提供するレスラーとなった。
ジャンボ鶴田引退、第二の人生でアメリカへ赴任
1999年2月20日の引退記者会見に続いて、1999年3月6日に日本武道館にて引退セレモニーが行われ、研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇として、オレゴン州ポートランド州立大学に赴任することを明らかにした。なお、勤務先であった桐蔭横浜大学のサイトには「客員研究員として」とある。
鶴田がアメリカへ向かう際、成田空港に見送りに来たのは三沢、仲田龍、大八木賢一専務のたった三人であったが、仲田の著書によれば、鶴田サイドと馬場元子オーナーとの間には既に距離があり、見送りに行けない空気を振り切って来たとのことである。
これが鶴田と三沢の最後の対面となったが、その際鶴田は「何かあったらすぐに言って来いよ。俺はミチャワくん(鶴田が三沢を呼ぶ際の愛称)の味方だから、それだけは忘れないでくれ」と告げたと言われる。
同年1月31日、師匠ジャイアント馬場の死後すぐに引退を発表。同時に全日本プロレスの取締役も辞任しています。
この前後よりB型肝炎は肝硬変を経て、肝臓癌へ転化かつ重篤な状態へ進行していた。鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断。日本では親族間の生体肝移植しか認められておらず、親族で唯一血液型が合致した実兄がドナー候補となるも最終的に移植条件に合致しなかったため、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けた。
オーストラリアで臓器提供を待っていたところ、2000年春になりフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、かの地へ急行・手術。ところが肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生、治療の甲斐なく5月13日17時(現地時間では16時)に死去した。
奇しくもこの日は、16年前にAWA世界ヘビー級王座から陥落した日であった。49歳没。戒名は「空大勝院光岳常照居士」。和田京平の著書によると、「鶴田は元々血を流すと止まりにくい体質であった」と記されている。
ジャンボ鶴田の突然の訃報にプロレスファンのみならず、日本中が悲しみに暮れました。
全日本プロレス"さよならジャンボ鶴田スペシャル" - YouTube
1977年3月11日のUNヘビー級選手権に挑戦した試合、1980年5月1日の第8回チャンピオンカーニバル決勝戦のお宝映像は必見です!
via www.youtube.com
#天龍プロジェクト 数年前 #ジャンボ鶴田追悼 イベントの時に、ジャンボ鶴田さんのご子息の祐士さんに送った画像です。
— 超獣だけの横道 (おうどう) (@chojyu1972) November 3, 2015
右が祐士さん。
時空を越えて、親子で鶴龍そろい踏み。 pic.twitter.com/0klPMnAs8w
2015年5月21日にジャンボ鶴田追悼メモリアル6人タッグマッチが行われました。15周忌を迎える現在も絶大なる人気を誇る伝説のレスラーです。
三冠ベルトの象徴ジャンボ鶴田
2013年、全日本プロレスは8月25日に(三冠王座生誕の地でもある)東京・大田区総合体育館にて開催される諏訪魔vs潮崎豪の三冠ヘビー級王座選手権試合を最後に、三本のチャンピオンベルトを創業者の馬場家へ返還することを決定し、8月25日のタイトル戦で諏訪間が防衛した翌日(8月26日)、改めて全日本から三冠ヘビー級王座チャンピオンベルトを一本化して新製し、10月27日に開催された両国国技館大会にて新装した三冠ヘビー級王座チャンピオンベルトを公開した。
尚、今までの三本のベルトは修繕作業を行った後に馬場家に返還される[2]。新しいベルトは中央部分にPWFヘビー級王座(「GIANT BABA」の刻印は「TRIPLE CROWN」に変更)、その左右にインターナショナルヘビー級王座・UNヘビー級王座のバックルをモチーフとしたプレートが配置され、ベルト後部には初代三冠ヘビー級王座であるジャンボ鶴田の名前が刻印されている。
ジャンボ鶴田が腰に巻いた三冠のベルトは老朽化の為に新調されました。
これからも秋山社長率いる全日本プロレスの選手たちがジャンボ鶴田イズムを受け継いで、激しい熱戦を繰り広げてくれることでしょう。ジャンボ鶴田よ永遠なれ!