東映の所属していた萬屋錦之介さんは、映画産業が徐々に斜陽化の様相を呈するようになった頃からテレビドラマへの進出を図ります。その頃に東映俳優労働組合の委員長に就任しました。労働争議の矢面に立った萬屋錦之介さんは、東映内部の争議を収拾できなかったこともあり1966年に東映を退社します。
そして退社から2年後の1968年に「中村プロダクション」を設立します。この当時はまだ芸名が中村錦之助だったんですね。本格的にテレビ時代劇の世界に進出し、高い評価を得ました。
しかし、牧野省三賞を受賞した1982年に「中村プロダクション」は倒産してしまいます。
膨大な借金や体調不良などのトラブルもあり、後年は苦労が多かった様子です。
そして退社から2年後の1968年に「中村プロダクション」を設立します。この当時はまだ芸名が中村錦之助だったんですね。本格的にテレビ時代劇の世界に進出し、高い評価を得ました。
しかし、牧野省三賞を受賞した1982年に「中村プロダクション」は倒産してしまいます。
膨大な借金や体調不良などのトラブルもあり、後年は苦労が多かった様子です。
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オフィス北野
株式会社オフィス北野(オフィスきたの、OFFICE KITANO INC.)は、東京都港区赤坂五丁目に本社がある、芸能事務所・映画会社。
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太田プロダクションに所属していたビートたけしさんが1986年にフライデー襲撃事件を起こしました。
その時ビートたけしさんは太田プロダクションを退職しています。
そして、新たに設立したオフィス北野の所属となりました。
このオフィス北野の社長は森昌行さんですが、大株主にビートたけしさんも入っていました。
オフィス北野は、ビートたけしさんだけではなくたけし軍団や寺島進さんなどのマネジメントを目的として設立された芸能事務所であり、映画製作や映画配給も行っていました。
現在、ビートたけしさんはオフィス北野を離れていますが、オフィス北野で残したものは大変大きかったと思います。
その時ビートたけしさんは太田プロダクションを退職しています。
そして、新たに設立したオフィス北野の所属となりました。
このオフィス北野の社長は森昌行さんですが、大株主にビートたけしさんも入っていました。
オフィス北野は、ビートたけしさんだけではなくたけし軍団や寺島進さんなどのマネジメントを目的として設立された芸能事務所であり、映画製作や映画配給も行っていました。
現在、ビートたけしさんはオフィス北野を離れていますが、オフィス北野で残したものは大変大きかったと思います。
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有名人が設立した芸能事務所を振り返ってみて
今回は芸能人が設立した芸能事務所に着目してみました。
全てではありませんが、倒産の憂き目にあっている事務所も多く、如何に経営が難しいのかがよく判りますね。
現在の個人事務所を経営されている芸能人の方々は、もしかしたらそういったリスクも踏まえて大きくしないのかもしれません。
また、事務所を大所帯にするのは時代背景もあったのかもしれませんね。
各方面でまだまだ活躍されている方々もいらっしゃるので、これからも応援していきたいと思いました。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
全てではありませんが、倒産の憂き目にあっている事務所も多く、如何に経営が難しいのかがよく判りますね。
現在の個人事務所を経営されている芸能人の方々は、もしかしたらそういったリスクも踏まえて大きくしないのかもしれません。
また、事務所を大所帯にするのは時代背景もあったのかもしれませんね。
各方面でまだまだ活躍されている方々もいらっしゃるので、これからも応援していきたいと思いました。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
I.O 2019/11/21 13:51
後数年で創立60周年を迎える石原プロですが、設立するや否や映画を中心に大ヒットをとばし、特に黒部の太陽(寺尾聰さんのデビュー作)や栄光への5000キロは、長蛇の列が出る程の大ヒットとなりましたが、70年公開作品・ある兵士の賭けが業績的に失敗し、石原プロはどん底の危機に立たされます。更に翌年・今度は当時社長を務める裕次郎さんが病に倒れ、同プロは二重の危機に見舞われますが、退院の翌年に奇跡が訪れます。それは裕次郎さんのテレビドラマ出演のオファーで、それは太陽にほえろ!の出演でした。同作品は裕次郎さん初のドラマ出演で、七曲署捜査一係長・藤堂俊介役で14年4ヵ月に渡って出演しテレビでも人気となりました。その後大都会・西部警察もヒットし石原プロの業績も快調かと思われましたが、86年中盤頃から体調を崩し、これがきっかけで太陽の降板を決意します。そして87年夏に裕次郎さんは52歳の若さで旅立ちました。