江利チエミ、45歳で急逝
1982年(昭和57年)2月13日午後、江利チエミは港区高輪の自宅マンション寝室のベッドの上で、うつ伏せの状態で吐いて倒れているのをマネージャーに発見されました。しかし既に呼吸・心音とも反応が無く、まもなく死亡が確認されました。死因は脳卒中と、吐瀉物が気管に詰まっての窒息によるものでした。
あまりにも突然過ぎる死に、江利チエミの親友だった「三人娘」の美空ひばりと雪村いづみ、他清川虹子や中村メイコらもショックを隠しきれずに号泣し、葬儀の席でも深い悲しみに暮れていたそうです。
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江利チエミがこの世を去る数日前には、2月8日にホテルニュージャパン火災、翌2月9日には日航機羽田沖墜落事故という、二つの大惨事が連日にわたり発生していました。ですから、当時の報道・マスコミはニュージャパン火災と日航機墜落事故で特別報道態勢を敷いており、テレビ各局は混乱に陥っていました。結果、江利チエミ急逝のニュースは予想以上に小さな扱いとなり、数日後に改めて追悼番組や特集などが組まれることになりました。
異父姉とのトラブルの結末
名古屋で家庭をもって暮らしていたY子は、さまざまな事情から母(チエミの実母・谷崎歳子)と幼くして生き別れになっていたが、ある日「スター歌手、江利チエミ」が自分の妹(異父妹)である事実を知った。
Y子は「離婚して経済的に困窮している」、と騙って家政婦・付き人としてチエミに近づき家に入り込み、身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得ていき、最終的にはチエミの実印を預かり、経理を任されるまでになった。嫉妬心に駆られていたY子は、ここからチエミを陥れるべく犯罪的な行動をとり始めた。
Y子は高倉健と江利チエミ、それぞれについて嘘の誹謗中傷を吹聴しまくり、ふたりを別居に追い込み、離婚へのきっかけを作りました。また、実印を使って江利チエミ名義の銀行預金を使い込み、高利貸しから多額の借金までします。不動産までも抵当に入れました。
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事件発覚後もY子は容疑を否定し、女性週刊誌や婦人誌などで反論を続けながら、江利チエミへの誹謗中傷や家庭内の暴露をやめませんでした。その挙句に失踪、自殺未遂騒動まで引き起こしました。不遇な境遇の自分と「大スターの妹」との差に嫉妬した計画的な犯行でした。
江利チエミは、断腸の思いで異父姉を告訴します。異父姉Y子には懲役3年の実刑判決が下りました。
江利チエミは、断腸の思いで異父姉を告訴します。異父姉Y子には懲役3年の実刑判決が下りました。
波乱の45年間だった
歌手デビュー直前に実母が死去し、3人の兄もチエミの存命中に2人が亡くなっています。高倉健との間に授かった子供も重度の妊娠中毒症から中絶することとなり、甥は電車事故死しました。そして、異父姉とのトラブルに、離婚と家庭運に恵まれていたとはいえません。
1970年1月21日には当時世田谷区にあった邸宅を火災で焼失、1972年には日本航空351便ハイジャック事件に乗客として遭遇するなど、芸能生活の華やかな栄光の陰には何故か常に「不幸」もつきまとう、波瀾万丈の45年間の生涯でした。