1990年代の女子アナブームの火付け役となった元フジテレビのアイドル的アナウンサー
「花の三人娘」と呼ばれた1990年代を代表するフジテレビの看板アナウンサー「河野景子」「八木亜希子」「有賀さつき」(1988年フジテレビに同期入社)
メディア文化論を専攻する法政大学社会学部の稲増龍夫教授はこう指摘する。
「もともとアナウンサーというのは男性の職業で、女性はあくまでもアシスタントというのが日本のテレビ局の方針でした。NHKに象徴されるような正しい日本語をしゃべる話し手、あるいはスポーツ実況のプロですね。
一方で、80年代の女子アナブームから、局独自のタレントとして女子アナを育てる流れが、フジテレビを中心に始まります。
その後は女子アナのほうがむしろメインとして、デビューした年からどんどん表に出て活躍するようになった。そうした女子アナブームの影響で、アナウンサーという職業そのものに対する世の中の見方が変わってきました。その中で、男性アナウンサーにもプラスアルファとしてアイドル的な部分が求められるようになってきたのだと思います」
八木亜希子(1988年フジテレビ入社)
様々なジャンルの番組をオールラウンドに担当し、1990年代を代表するフジテレビの看板アナウンサーとして長く活躍した。ドラマ出演やCDデビューなど、アナウンス以外の活動もあったが、2000年3月末に退社。後に共同テレビジョン所属のフリーアナウンサーに。タレント・女優としても活動し、テレビCM・ドラマ・映画などに出演。
2002年10月、大学時代の同級生である会社員と結婚。その後アメリカニューヨーク、カリフォルニア州サンノゼに渡る。アメリカ滞在中、カリフォルニア州のディアンザカレッジにてESLのクラスを受け、2007年にサンタクララ大学大学院へ入学するが、帰国することになり半年で休学、帰国した。
明石家さんまとともに司会を務める『明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー』は、フジテレビアナウンサー時代の1990年から続いている。
(出典:Wikipedia「八木亜希子」)
河野景子(1988年フジテレビ入社)
宮崎県出身。宮崎大学教育学部附属中学校、宮崎県立宮崎大宮高等学校を経て、上智大学外国語学部フランス語学科卒業。
高校在学中、交換留学生としてアメリカ合衆国に1年間留学した経験がある。大学在学中の1984年、在学していた大学のミスキャンパスである、『ミス・ソフィア』に選ばれた。また、週刊誌 『週刊朝日』の公募表紙モデルを務めたほか、ファッション雑誌 『CanCam』(小学館)に読者モデルとして出演するなどしていた。
大学卒業後の1988年、アナウンサーとしてフジテレビに入社。同期のアナウンサーとして、有賀さつき、八木亜希子、青嶋達也がいた。また、『めちゃ×2イケてるッ!』を立ち上げた片岡飛鳥や元ドラマプロデューサーの杉尾敦弘、記者として入社し、後にニュース番組のキャスターを務めた笹栗実根も同期入社である。
河野はアナウンサーとして、ニュース番組、『FNNモーニングコール』等でキャスターを担当した。また、同期の女性アナウンサーである有賀、八木とともに「花の三人娘」と呼ばれたが、1994年3月をもって退社した。
フジテレビ退社翌年の1995年、同年より横綱に昇進した大相撲力士、貴乃花(本名: 花田光司)と婚約(既にこの時、妊娠6ヶ月)を発表。結婚後に3児をもうける。
貴乃花が現役を引退、親方に就任したことに伴い、相撲部屋「貴乃花部屋」の女将の立場となった(なお、貴乃花部屋で同居はしていない)。
(出典:Wikipedia「河野景子」)
有賀さつき
身長は170cm。
両親は東海地方出身で、母親の里帰り出産のため愛知県で生まれたものの、愛知県に一度も住んだことはなく、小学校から高校まで東京都の公立学校を卒業している。
父親の転勤によって、1970年~1973年(5歳~8歳)までニューヨークに住んでいた帰国子女であり、英語は得意。
小中学生時代は塾通いの毎日であったという。ピアノが得意で、4歳~17歳まで習っていた。
1984年~1985年には、文化放送「ミスDJリクエストパレード」にてラジオのパーソナリティーを務めた。
同期の女性アナウンサー2人(河野景子、八木亜希子)とともに「花の三人娘」と呼ばれ、女子アナブームの全盛期を飾った。
(出典:Wikipedia「有賀さつき」)
木佐彩子(1994年フジテレビ入社)
木佐彩子(1994年フジテレビ入社)
1987年、青山学院高等部に38期生として入学。在学中はチアリーディング部に所属し、副キャプテンを務めた。
その後、青山学院大学文学部英米文学科入学。
大学在学中、語学学校にも通い通訳のアルバイトもしていた。テレビ朝日系『CNNヘッドライン』や『ニュースステーション』にキャスター、リポーターとして出演。放送デビューを果たした。
卒業後の1994年、フジテレビ入社。同期は武田祐子、富永美樹、佐野瑞樹。他局では、元日本テレビの羽鳥慎一と同期。
夫の石井一久とは、石井がヤクルトスワローズに所属していた当時、2000年3月に結婚。これがきっかけで、「家に帰って晩ご飯が作れるように」などという理由で報道番組『スーパーニュース』に移ることとなった。2001年8月から産休に入り、12月男児を出産した。
(出典:Wikipedia「木佐彩子」)
中井美穂(1987年フジテレビ入社)
中井美穂(1987年フジテレビ入社)
1988年、『プロ野球ニュース』メインキャスターを担当し、番組初の女性メインキャスターとなる。
1989年には『同・級・生』に出演したことで話題となる。
1992年から平日メインとなり、八木亜希子、小島奈津子、西山喜久恵ら後輩とともにフジを代表する看板アナウンサーに成長した。
他にも『平成教育委員会』、『FNNスーパータイム』(スポーツキャスター)等に出演。
1995年、古田敦也と結婚、退社。フリーとなる。フリー転身直後の同年12月31日、NHK『第46回NHK紅白歌合戦』に短時間ではあるが出演した(審査員を務めた古田の後ろの席におり、白組司会の古舘伊知郎とトークをする場面があった)。
フリー転身後は司会だけでなく、バラエティ番組のゲスト出演やコメンテーターとしての登場が比較的多い。『平成教育委員会』も逸見政孝の癌闘病による降板(その後1993年12月25日死去)後、学級委員長として解答者兼任で番組進行を務めていたが、その後、番組のリニューアルに伴い解答者に専任したこともある。
(出典:Wikipedia「中井美穂」)
90年代に活躍した日本テレビのアイドル的アナウンサー
1993年、永井美奈子、薮本雅子、米森麻美は、アイドルグループ 『ドラ(DORA)』を結成
永井美奈子、薮本雅子、米森麻美は、アイドルグループ 『ドラ(DORA)』を結成
当時の人気コーラスグループMi-Keに対抗し、日本テレビの若手女性アナウンサーで結成した。「夜も一生けんめい」で出演することになり、同番組のレギュラーであった美川憲一に名前をつけられる。
CDでは「Three DORAstic OL of NTV」と説明されている。
そもそもは、日本テレビで放送されていたファッション番組「クチュリエで道楽」の司会を務めていた永井と薮本の番組企画に、米森が加わったユニットである。
楽曲「いつまでもそばにいて」でシングルCDをリリース(1993年4月1日発売、発売元バップ、廃盤)。このCDデビューは、当時永井が出演していた「NNNニュースジパング」で「ニュース項目」になるジョークがあった。
同年、このDORAにならって系列局の讀賣テレビ放送でも当時の若手女子アナ三人衆であった植村なおみ・脇浜紀子・徳山順子で「NORA」が結成されている。
(出典:Wikipedia「DORA」)
永井美奈子(1988年4月日本テレビ入社)
1988年4月、日本テレビ入社。ニュース、スポーツ、バラエティ、あらゆる分野を経験。1992年から1993年にかけて、同局アナウンサー(当時)の米森麻美、薮本雅子と「DORA」というユニットを結成、CDもリリース。
アナウンサーでありながらアイドル図鑑トップテン入りを果たす。
クイズ番組で1999年9月に終了した「マジカル頭脳パワー!!」の2代目オペレーターも務めた。24時間テレビを徳光和夫とともに総合司会。日本テレビ時代の同期入社は福澤朗、関谷亜矢子、村山喜彦、小栗泉。日本テレビ社長賞受賞。
(出典:Wikipedia「永井美奈子」)