清原和博 衝撃! 清原逮捕!! でも求ム!!! 人生の1発逆転ホームランを!!!!
2019年8月14日 更新

清原和博 衝撃! 清原逮捕!! でも求ム!!! 人生の1発逆転ホームランを!!!!

清原は何度も絶体絶命のピンチを1本の大きなホームランで逆転させた。みんなそれをみて思った。「人生捨てたもんじゃない!」「あきらめたなアカン!」もう1度見せて欲しい。スカッとする1発を!!

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アンタッチャブルな存在へ

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清原和博は、引退した翌日からバットを振らなくなった。
家族との時間が増え、週末には子供の野球を見にいくのが楽しみだった。
(子供の入っているチーム「オール麻布」の練習は週末だけだった)
また2009年1月には日刊スポーツと専属評論家として契約。
当面、野球評論家として活動していき、いつか監督やコーチとして野球の現場へ入ることを目指した。
その選手目線の解説は面白かった。
ワールド・ベースボール・クラシックでも実況中継の解説者として起用されたが、左膝痛で2次ラウンドの2試合の出演をドタキャン。
準決勝、決勝は番組は出演し、Japanの2連覇に
「日本バンザイ!」
と叫び盛り上げたが、同じ理由でラジオの解説の仕事を断っていたこともあり、次第に
「清原は扱いづらい」
というイメージが業界に定着してしまった。
こうして野球の解説の仕事は減ったが持ち前のキャラクターとスター性で、タレントしてバラエティー番組で活躍が増えた。
そしてお茶の間を楽しくさせてくれた。
おそらくギャラが高額なテレビの仕事をこなし、キレイな嫁に子供もいて、一見、幸せで順調の元プロ野球選手の人生だったが、清原自身は大きな悩みを抱えていた。
テレビの仕事をしながら、いずれコーチや監督をしたいと思っていた。
しかし依頼してくるチームはまったくなかった。
小学3年生からの野球バカで趣味はなく、脚が不自由なこともあり、酒を飲みに出ることが多くなった。
その量もドンドン増えていき、やがて闇の交流もできた。
最初の覚醒剤は、酒の勢いと軽い気持ち行われた。
しかしが、1度、覚えると、嫌な自分からのクスリによって逃げ、そして自己嫌悪に陥り、思い悩んでまた薬をするという悪循環が続いた。

覚醒剤疑惑 元スター 孤独

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2014年、週刊文春に清原の覚醒剤疑惑の記事が掲載された。
その後、肩や足に刺青を入れていることも報道された。
するとテレビの仕事もなくなっていった。
ある日、家に帰ると妻と子供が消えていた。
清原は茫然とした。
「子供が心配や」
翌日、何度も子供を探しに学校に行ったり、少年野球のグラウンドにいったが会うことはできなかった。
清原の子供は野球の才能があり、清原の希望だった。
球界に復帰して監督になって、子供がプロ野球選手になったら自分が指導するのが夢だった。
実際、長男は野球をやめたが、次男は、少年野球チーム「オール麻布」から巨人の下部組織「ジャイアンツジュニア」に進んでいる。
プロ野球12球団がそれぞれ小学5、6年生で編成されたジュニアチームがあり、毎年12月にる軟式野球大会「NPB12球団ジュニアトーナメント」を行っている。
清原の体に刻まれた入れ墨は、3頭の龍が対角線上につながるように彫ってあるが、脚の2頭の龍は子供、胸の龍は清原自身を意図しているという。
家族が家を出て3ヶ月後、やっと連絡が取れるようになった。
日曜は「魔の日曜日」だった。
日曜は子供の野球を見に行く。
子供たちは当然、「パパー」ってなついてくる。
でも帰りには1人になり「ドーン」っと落ち込む。
日曜日は「魔の夜」だった。
家族がいなくなった後、清原の酒やクスリの量はますます増えた。
覚醒剤の量は普通の人なら致死量に相当する量に達っすることもあった。
清原はなにかあったとき迷惑が掛からないよう自分から親しい友人と距離を置いた。
もちろん様々な疑惑がうわさされる清原から離れていった人もいる。
こうして甲子園でスターになって以来、いつも人に囲まれていた清原は初めて1人になった。

【覚醒剤取締法違反】清原和博「俺、殺人でもしたんかな・・・」ろれつ回らぬ口調で絶望を暴露!【金スマ】

2014年9月、離婚発表。
2人の息子の親権は元妻が持つことになった。
2015年4月3日、「中居正広の金曜日のスマたちへ」に1年ぶりにテレビ出演。
四国88カ所お遍路巡りや、人目を避け、家からほとんど出ず、マスコミに見つからないように朝6時半に買い物に出ることなどが紹介された。
そして
「息子がいなかったらこの世にいなかった」
と自殺を考えたことや苦しい胸の内を吐露した。

13 清原和博が覚せい剤と刺青の事をダウンタウンに語る。でも、今見るとさんざんウソをつく清原 2

2015年8月28日、「ダウンタウンなうSP」に出演。
清原は刺青を入れていることは認めたが薬物疑惑をキッパリ否定。

衝撃!清原逮捕!!

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2016年2月2日20時50分頃、警視庁が東京都港区のマンションで清原を覚醒剤の使用と所持で逮捕。
そのとき清原は1人で、手に注射器を持ったところを強襲された。
警視庁は2010年ごろから清原を内偵していた。

野村貴仁元選手「現役時代、俺が清原和博容疑者に覚醒剤を渡した」

逮捕後、桑田真澄は数年前から薬物にかかわらないように進言してきたが、断絶状態にされていたことを明かした。
また巨人時代の同僚である野村貴仁は、
「巨人時代からグリーニーを使用していた」
「自分が逮捕されたとき、拘置所に清原から電話がかかってきて、自分のことを警察に漏らしたかどうか確認され、『話していない』というと『すまない』といった」
とそのインパクトのあるルックスをさらに上回る爆弾発言を行った。
清原の初公判は、20席の傍聴席に対し3766人の希望者がいて188倍の倍率がついた。
「職業は?」
「無職です」
住所や年齢などが尋ねられる人定質問から起訴状の朗読。
清原は直立し黙秘権などを権利を説明されてから認否を問われ
「間違いありません」
と容疑を認めた。
検察側は
「覚醒剤に依存する傾向が顕著で深刻。
常習性が強い」
と懲役2年6ヵ月を求刑。
弁護側は、
「甲子園を沸かせプロ野球でも球界を代表するバッターとして大きく貢献してきた。
今回の報道で社会的な制裁は受けている」
と保護観察付きの執行猶予を求めた。
清原は、スターになって勘違いしてしまったことを後悔し、球界、野球選手を目指す子供たち、2人の息子へ謝罪の意を示し、最後には傍聴席にも礼をし
また生まれて初めて父親に手紙を書き、弁護人に託した。
「人の役に立つ人間に生まれ変わり人生をやり直してほしいと思っています。
親としてできる限りの支援をしたいと考えています」
佐々木主浩は、裁判に証人として出廷し証言台に立った。
そして豪放磊落な番長キャラとは違い実際の清原は繊細で心優しく、気さくな人柄で周囲に慕われる人間であり、これまで粗暴なふるまいをみたことがないこと、また逮捕時に謝罪の電話があったことも語った。
西武の森監督や巨人の長嶋監督も清原について
「あれほどチームプレーに徹する選手はいない」
とコメントしている。
500本以上のホームランを放ちながら、ホームラン王、打点王、首位打者という打撃の主要なタイトルは獲得したことがない理由は、こうしたところにあるのかもしれない。

東京地裁が清原被告の保釈を許可 警視庁本部から保釈へ

2016年3月17日、清原は保釈された。
保釈後は千葉県松戸市内の病院に入院。
3月20日夜、病院の前で張り込みをしていた報道陣に、大量の焼き肉弁当が差し入れられた。
「清原被告と親しい人物から頼まれた」
という男性2人がワンボックスカーに乗って現れ、早朝からカメラを構える報道陣に焼肉弁当30個を差し入れた。
原則的に取材相手から食事の提供などを受けるのは御法度なため、多くの記者が手をつけなかった。
2016年5月31日、裁判所の判決は、懲役2年6ヵ月。
初犯ということで執行猶予4年がついた。
最後に裁判長は諭した。
「あなたは1人ではない。
父親、親戚、支援者、証人として出廷した佐々木氏、そして全国のファンがいることを忘れないで、今後も厳しい現実が待っているでしょう。
覚醒剤をやめるのは簡単ではありません。
もし弱気にになることがあったら、父からの手紙を読み返し、親身になってくれる人に相談しましょう。
専門の医療機関で治療を受けて、覚醒剤に関係する人たちと縁を切ることが大切です」
裁判の終わりに清原は傍聴席に一礼した。
「構成をサポートしていく責任を感じている。
まずは2人で会って今後のことを本音で話したい。
球界の先輩、後輩でできる限りサポートして心の支えに練れれば・・・」
(佐々木主浩)
「僕にとって彼は一緒に戦った仲間でかけがえのない友人。
今後はこれまで以上に大変なことがあるでしょうが
野球人としてさまざまな困難に立ち向かってきた彼だからこそ克服してほしい。
しっかりとリハビリして、また野球界に元気な姿を見せてほしい」
(桑田真澄)
基本的に現役選手、現役の監督らからコメントは出されなかった。
元妻も逮捕時はコメントを残したが、判決については一切触れることなく沈黙を貫いた。
岸和田での支援は
「将来、彼が店を出せるように・・・」
と自分の店を閉めてまで清原をサポートしようとする飲食店経営者もいた。

あきらめたらアカン! 1発逆転、サヨナラホームランがある!!

清原和博さんが依存症の啓発イベントに出席

2019年3月6日、清原は、厚生労働省主催の薬物などの依存症啓蒙イベントに特別ゲストとして出席。
2016年2月に逮捕され、同年5月に懲役2年6か月、執行猶予4年の有罪判決を受け、その後は薬物専門の医療機関での治療を続けた。
そして逮捕されてから3年後に初めて公の場に姿をみせたのだ。
しかしそのわずか3日後、羽田空港で2人の警察官から職務質問を受け、頭から足元まで、ダウンジャケットやジャージのポケットに手を突っ込まれて所持品検査をされた。
清原はいわれるまま従ったが、その表情は苦々しかった。
そして検査が終わって車に乗り込んだ清原は、警官の背中に向けて中指を立てた。
こんな冷遇は一生続くのかもしれない。
しかし清原は、プロで通算を12本のサヨナラホームランを打った。
これはプロ野球1位の記録で、2位は野村克也の11本、王貞治は8本で4位、長嶋茂雄は7本で6位である。
絶体絶命のピンチを1本の大きなホームランが逆転させるのをみて観客は思う。
「人生捨てたもんじゃない!」
「あきらめたなアカン!」
清原にもう1度見せて欲しい。
スカッとする1発を!!
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