【高校野球】PL学園のKKコンビを撃破!甲子園で勝利した3人の投手たち
2023年6月5日 更新

【高校野球】PL学園のKKコンビを撃破!甲子園で勝利した3人の投手たち

KKコンビがいた頃のPL学園は当時最強のチームで、清原と桑田は1年生の夏から3年間フルに甲子園に出場しました。戦績は最強チームらしく、優勝2回、準優勝2回、四強1回。しかし逆に言うと、PL学園を破った高校が3校もあったということになります。今回は、その3校と各々のエース投手を中心に振り返ります。

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KKコンビに勝利した3校

1983〜1985年、KKコンビがいた頃のPL学園は、春夏すべて大阪予選を勝ち上がり、トータル5回甲子園に出場しました。戦績は、優勝2回、準優勝2回、四強(ベスト4)1回と文句なしの好成績。しかし、優勝するのが当然といった雰囲気があり、PL学園が負けると大波乱のように喧伝されました。

戦績の内訳は次の通りです。
年度 大会 結果 最終戦の相手 最終戦の投手
1983 夏・選手権 優勝 横浜商 三浦将明
1984 春・選抜 準優勝 岩倉 山口重幸
1984 夏・選手権 準優勝 取手二 石田文樹
1985 春・選抜 ベスト4 伊野商 渡辺智男
1985 夏・選手権 優勝 宇部商 古谷友宏
実はPL学園が優勝したのは、KKコンビにとって "最初の甲子園" と "最後の甲子園" の2回。つまり、その間の3回は優勝に届かず、悔し涙を流したことになります。今回は、PL学園の3度の敗戦に注目し、PL学園を破った高校とその主戦投手を中心に振り返ります。

山口重幸(岩倉)

KKコンビがいた頃のPL学園が初めて敗退したのが、1984年春の第56回選抜高等学校野球大会の決勝戦。相手チームは、東京都の岩倉高校でした。岩倉高校は、なんとこのとき甲子園初出場!決勝戦の舞台に立つことすら快挙というチームで、戦前の予想はもちろんPL学園が圧倒的優位でした。

しかし、結果は意外にも、1対0で岩倉高校がPL学園に勝利!なんと初出場で初優勝の快挙を果たしています。その奇跡に最も貢献したのが、PL学園を1安打零封した山口重幸投手。ストレートは140km/hそこそこのスピードながら、多彩な変化球で強打のPL打線を苦しめました。本人曰く「僕のはイカサマ・ピッチング。バットの芯を外すことしか考えていませんでした」とのこと。実は、岩倉高校は、KKコンビのPL学園を0点に抑えた唯一のチームです。

余談ですが、岩倉高校は、準々決勝で、(その年の夏、同じくPL学園を破って優勝することになる)取手二高も破っています。
身長177センチの山口投手は、前年秋の神宮大会決勝で京都商を完封したほどの好投手ですが、ストレートのスピードは140キロそこそこ。ただし、パームボールをはじめとする変化球は多彩で、「打たせてとる」典型的なピッチャーでした。「僕のはイカサマ・ピッチング。バットの芯を外すことしか考えていませんでした」と本人。だが、この“イカサマ・ピッチング”が決勝では効果を発揮するのです。

(中略)

 7回表、PL学園は四球で無死一塁。ここで打席に入ったのが4番・清原選手です。既にこの大会だけで3本のホームランを放っていました。

 打席に入るなり、清原選手はバントの構えを見せました。「打ってこられた方が嫌だった」とは山口投手。犠打は成功し、1死二塁。内野手がマウンドに集まり、山口投手にこう告げたそうです。

「オマエ、いいピッチャーだなァ。あの清原がバントだぞ」

 この一言でリラックスした山口投手は後続を打ち取り、この回もゼロに抑えました。

 均衡が破られたのは8回裏。この回、岩倉先頭の武島信幸選手がライト線に二塁打。2死一、二塁から2番・菅沢剛選手がライト前に弾き返し、先制点をもぎ取りました。結局、この1点が決勝点となり、岩倉が1対0でPL学園を破り、頂点にまで上り詰めたのです。東京の下町の高校が起こした“春の奇跡”でした。

第56回選抜高校野球 決勝【岩倉 VS PL学園】

夏も期待された岩倉高校ですが、東東京予選で二松學舍大附高に破れ敗退。選抜優勝校が予選で敗れるあっけない幕切れで、山口投手の夏が終わりました。

山口は、その年のドラフト会議で、阪神タイガースから6位指名を受け、プロ入りします。(同学年の森範行は、ドラフト5位指名で日本ハムに入団。)阪神では、投手ではなく野手に転向。1988年に一軍の試合に初出場しますが、その後目立った結果は残せず、1994年に自由契約。ヤクルトに移籍し、1996年に引退します。引退後は、ヤクルト・野村監督からの要望で、打撃投手を務めました。

清原和博に送りバントをさせた凄いピッチャー 山口重幸 岩倉高校

石田文樹(取手二)

PL学園は1984年の選抜優勝は逃しましたが、その夏も順調に予選を突破し、第66回全国高等学校野球選手権大会に出場します。もちろん、優勝候補の筆頭。春と同様、決勝戦まで駒を進めます。そこに立ちはだかったのが、名将・木内幸男監督率いる取手二高。初戦から優勝候補の箕島、その後、福岡大大濠、鹿児島商工、鎮西と強豪校にすべて快勝し、絶好調のまま決勝の日を迎えていました。

決勝でも取手二高の勢いは止まることなく、1回表にいきなり2点を先制。その後、PL学園が6回に1点を返すも、7回には吉田剛が2ランホームランを放ち、7回を終わって4対1と差を広げます。石田文樹投手の内角攻めを意識した好投が奏功し、取手二高の優勝は目前でした。しかし、そこは最強のPL学園。8回裏に清原のヒットを皮切りに連打で2点を奪うと、絶体絶命の9回裏には、清水哲のホームランで同点に。石田は、一転してサヨナラのピンチを背負います。

ここで出たのが、木内マジック。ワンポイントで柏葉勝己投手を起用し、再び石田に戻す秘策で9回のピンチをしのぎます。そして、10回表には取手二高打線が爆発!一気に4点を奪い、8対4で試合を決めました。後日談ですが、実は試合中、桑田は血豆を潰していて思い通りのピッチングができなかったといいます。

その年の国体でも、取手二高は決勝戦でPL学園を撃破。その後、桑田がこっそり取手二高を訪れたというのは有名なエピソードです。
 エース石田文樹、捕手中島バッテリーの桑田、清原対策もはっきりしていた。「内角攻め」。準決勝までを分析した中島は振り返る。「みんな外中心の組み立てで打たれていた。だから石田とは内のシュートやシュート回転をかけたストレートを投げようと話していた」

1984年(昭和59年)第66回全国高等学校野球選手権大会 決勝戦 取手二 VS PL学園

石田は、その後、日本石油からドラフト5位指名で横浜大洋ホエールズに入団。しかし、一軍登板はわずか25試合に終わり、1994年に引退を余儀なくされます。その後は、打撃投手として球団に残り、違う形でチームに貢献。しかし、2008年、直腸癌のため41歳の若さで亡くなっています。

同期では、吉田剛がドラフト2位で近鉄に入団。近鉄、阪神で活躍しました。

【甲子園あの時】84年夏決勝・取手二対PL(10)オヤジの贈り物―桑田さん心の指導

渡辺智男(伊野商)

2年生では、優勝を期待されながらいずれも準優勝と苦杯を喫したKKコンビ。年明けて1985年、3年生として最後の年を迎えます。その春も順調に予選を突破。第57回選抜高等学校野球大会に出場します。

迎えた準決勝。相手は高知県の伊野商で、初出場ながら優勝候補の東海大浦安を圧倒するなど、甲子園で快進撃を見せていました。その立役者こそ、エース渡辺智男投手です。

渡辺は、準決勝でもPL打線を寄せ付けず、得点は松山秀明のホームランのみに抑えます。清原は、渡辺の速球に全くタイミングが合わず3三振。特に最後は、屈辱の三球三振を喫します。結局、伊野商は3対1でPL学園に完勝!決勝でも帝京を4対0と圧倒し、前年の岩倉に続く初出場初優勝の快挙を果たしました。

渡辺は、バッティングも良く、初戦の東海大浦安戦、決勝の帝京戦と通算2本のホームランを放っています。
~勝負の第3打席 3球で見逃し三振  清原悔し泣き~

 怪物VS無名剛腕。クライマックスは8回に訪れた。2死からPL学園の3番・安本が左前打。打席には清原。1発出れば同点だ。初球は真ん中低め、ボール気味のカーブを清原が空振りした。2球目は外角高めの141キロ直球。また空振り。渡辺は腰を折りながら柳野のサインをのぞき込んだ。今度は首を振らずに目配せで、もう一度サインを要求した。投じた直球は糸を引くように外角に構えた柳野のミットに吸い込まれた。146キロ。清原は手が出ない。見逃し三振。悔しそうにバットをグラウンドに振り下ろした。

1985 甲子園-春 渡辺智男1 伊野商

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