【高校野球】1970年代夏の甲子園!優勝投手でプロ入りしたのは誰!?
2023年9月2日 更新

【高校野球】1970年代夏の甲子園!優勝投手でプロ入りしたのは誰!?

夏の甲子園の優勝投手ともなれば、プロのスカウトが放っておくはずもなく、多くの投手がプロ入りを果たしています。鳴り物入りでプロ入りするも、その後の結果は様々。中には、打者に転向した選手や、登板がほとんどなく引退した選手もいます。今回は1970年代にフォーカスし、プロ入りした夏の甲子園優勝投手を振り返ります。

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津久見・水江正臣(1972年)

水江正臣は、大分県立津久見高校のエースで、1972年夏の甲子園(第54回選手権)で優勝。1回戦から決勝までの5試合をすべて、一人で投げ抜きました。決勝戦の対戦相手は柳井高校で、クリーンナップの一人がのちに西武で活躍した岡村隆則です。

その年のオフ、ドラフト6位指名でヤクルトアトムズ(のちのヤクルトスワローズ)に入団。同期入団には、永尾泰憲、小田義人、鈴木康二郎がいました。しかし、水江は、一軍出場することなく、1976年に戦力外通告で引退しています。

因みに、ベーシストの水江慎一郎は水江の従兄弟です。
春と夏の甲子園で頂点に立った実績がある大分県勢。近年はなかなか上位進出とはならないが、歴史をひもとけば、なじみのある好選手が並ぶ。 投手は水江正臣(津久見)を推したい。1972年の第54回大会で抜群の制球力とスタミナで決勝までの全5試合を投げ抜き、県勢の夏制覇に貢献した。

銚子商・土屋正勝(1974年)

土屋正勝は、千葉県立銚子商業高校2年生の時にエースに抜擢され、1973年夏の甲子園(第57回選手権)に出場。2回戦では、怪物・江川卓投手を擁する作新学院と対戦し、延長12回押し出しで投げ勝った試合はあまりにも有名です。翌1974年の春の選抜では、準々決勝まで進出。そして、夏の甲子園(第58回選手権)では、防府商業を完封で下し悲願の初優勝を果たしました。この時、4番を打っていたのが1学年下で、のちに巨人で活躍する篠塚利夫です。

この年のドラフトは有力選手が多く、鹿児島実業の定岡正二(巨人1位)、横浜高校の永川永植(ヤクルト1位)、土浦日大高の工藤一彦(阪神2位)と、土屋正勝は「高校四天王」と呼ばれました。土屋はドラフト1位指名で、中日ドラゴンズに入団します。

しかし、プロではなかなか結果が残せず、怪我にも苦しめられます。1979年にはローテーションの一員として17試合に登板しますが、2勝6敗1セーブ。1984年にロッテに移籍し、中継ぎ投手として活躍しますが、1986年に引退しています。
土屋は高校卒業直後の5月、巨人を相手にプロで先発した。試合は負けたが、初回には、王貞治を三球三振に打ち取った。

「柴田、高田、王、末次。三塁コーチボックスには長嶋監督が立っていた。テレビでしか見たことない選手たちを相手に、夢中で投げた」

プロの生活は計12年。常に、けがで苦しんだ。 「焦れば焦るほど、無理をして悪くなる。高校で運を使い果たしたかな」とも思った。「甲子園優勝投手」に寄せる周囲の期待も重荷だった。

86年、引退。「甲子園での優勝が夢だった自分にとって、プロはおまけだったのかもしれない」という土屋は、故郷に戻った。

習志野・小川淳司(1975年)

今回紹介する優勝投手の中で、最もなじみのある名前が恐らくこの人でしょう。

小川淳司は、習志野市立習志野高校のエースで、2年生から主力投手として出場。1974年、2年生夏の千葉大会では、先述した土屋正勝を擁する銚子商業と対戦し、0-2で惜敗しています。銚子商業は、甲子園で全国制覇。翌1975年は、そのリベンジを果たすかのように、千葉大会の準決勝で銚子商業を破り、夏の甲子園(第59回選手権)に出場。決勝までの5試合をすべて完投し、2年連続で千葉県勢が全国制覇を成し遂げました。因みに、ミスタータイガースこと掛布雅之は、習志野高校の2年先輩です。

高校卒業後は、中央大学に進学し、その後、河合楽器に入社。大学時代に外野手に転向し、社会人時代は都市対抗野球でも活躍しました。1981年ドラフト4位指名で、ヤクルトスワローズに入団します。

ヤクルトでは、ほぼ準レギュラーとしての扱いでしたが、1984〜1985年はレギュラーを勝ち取り、二桁本塁打を記録するなど活躍。1992年に日本ハムに移籍し、その年引退しました。

引退後は、ヤクルトでスカウト、コーチ、二軍監督、一軍ヘッドコーチなどを歴任。最近では、2011〜2014年、2018〜2019年に一軍監督を務めています。

【ヤクルト現役監督登場‼︎】小川淳司監督に高木豊が迫る‼︎

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東洋大姫路・松本正志(1977年)

松本正志は、東洋大学付属姫路高校のエースで、"江夏二世" と呼ばれるほどの豪速球投手でした。1977年夏の甲子園(第59回選手権)で優勝。初戦の千葉商業高校、3回戦の浜田高校、準決勝の今治西高校の3校を完封する好投を見せ、決勝の東邦高校戦では1点を失うも、10回裏に4番打者・安井浩二のサヨナラホームランで劇的な優勝を成し遂げました。

その年のオフ、ドラフト1位指名で阪急ブレーブスに入団。1年目の1978年はわずか6試合登板ながら、ヤクルトとの日本シリーズで伝説の第7戦に登板するなど活躍を見せます。しかし、その後はフォームを崩したことで故障に見舞われ、1987年に引退。現役の途中には、登録名を松本祥志に変えていた時期もありました。

引退後は、阪急の用具係に就任。その後、球団名がオリックスやブルーウェーブ、バファローズに変わっても継続しており、30年以上にわたってチームを支えています。
引退後は、阪急ブレーブスの球団職員を経てオリックス野球クラブ株式会社に入社。現在、チーム運営グループ・用具担当として忙しい毎日を送っている。シーズンオフは、用具の発注やキャンプのグランド作り。シーズンに入ると練習設備の管理や遠征の荷物手配と仕事は多岐に渡る。これまで多くの選手を影で支えてきた。あのイチロー選手もその一人である。

PL学園・西田真次(1978年)

PL学園が "逆転のPL" と呼ばれるようになったのが、1978年夏の甲子園(第60回選手権)西田真次(のちの西田真二)木戸克彦バッテリーを中心としたチームで、奇跡的逆転を二度、しかも、準決勝と決勝で果たしたことで特別な呼び名が付けられました。

準決勝の中京高校戦では、9回裏0-4から4点を追加して同点に追いつき、延長12回サヨナラ勝ち決勝の高知商業戦では、9回裏0-2から3点を取って逆転サヨナラ勝ちの優勝。特に、決勝は、1アウト2-3塁から三番・木戸の犠飛で1点差。続く四番・西田が二塁打で同点。最後に五番・柳川が逆転サヨナラタイムリーヒットを放つという劇的な幕切れでした。両試合とも、9回まで完投したのが西田真次です。

高校卒業後は、木戸とともに法政大学に進学。外野手に転向し、東京六大学リーグでも3度の優勝を経験します。1982年ドラフト1位指名で広島東洋カープに入団。ただ、当時の広島の選手の層は厚く、打撃力はあったものの、ほとんどが代打での出場でした。しかし、通算打率は.285と高打率を記録しています。

[完全版] 1978年 -夏- 決勝 [PL学園 vs 高知商] [ああ甲子園の高校球児]

[完全版] 1978年 -夏- 決勝 [PL学園 vs 高知商] [ああ甲子園の高校球児]

箕島・石井毅(1979年)

今も語り継がれる延長18回の死闘1979年夏の甲子園(第61回選手権)箕島対星稜戦。その試合で18回を投げ抜いた和歌山県立箕島高校のエースこそ、石井毅です。のちに阪神に入団した嶋田宗彦とバッテリーを組み、1979年の甲子園、春秋連覇を果たしました。

高校卒業後は、嶋田とともに住友金属に入社。都市対抗野球で優勝するなど活躍し、1982年オフ、ドラフト3位指名で西武ライオンズに入団します。

西武でのキャリアハイは1986年。中継ぎとして42試合に登板し、5勝1敗2セーブ、防御率2.50。日本シリーズにも登板し、チームのリーグ優勝、日本一に貢献しました。しかし、それ以外の年では十分な成績が残せず、1988年に引退。現在は木村竹志と改名し、侍JAPAN U15のコーチを務めるなど、今日も野球に携わっています。

箕島高校 栄光の歴史~公立高校唯一の春夏連覇~

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