【高校野球】1980年代夏の甲子園!優勝投手のその後!プロ入りしたのは誰!?
2023年9月14日 更新

【高校野球】1980年代夏の甲子園!優勝投手のその後!プロ入りしたのは誰!?

夏の甲子園の優勝投手ともなれば、プロのスカウトが放っておくはずもなく、多くの投手がプロ入りを果たしています。鳴り物入りでプロ入りするも、その後の結果は様々。中には、打者に転向した選手や、登板がほとんどなく引退した選手もいます。今回は1980年代にフォーカスし、プロ入りした夏の甲子園優勝投手を振り返ります。

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横浜・愛甲猛(1980年)

愛甲猛は、横浜高校のエースで、3年時の1980年夏の甲子園(第62回選手権)で優勝決勝戦の相手は、当大会最も注目を集めていた1年生投手・荒木大輔のいる早稲田実業で、荒木の連続イニング無失点記録をストップさせ、見事投げ勝ちました。実は愛甲も、荒木同様、1年生から投手として甲子園に出場しており、1978年夏の甲子園(第60回選手権)では、3回戦まで進んでいます。

その年のオフ、ドラフト1位指名でロッテオリオンズに入団。主に中継ぎ投手を務めますが結果が出ず、4年目の1984年に打者に転向します。先輩の落合博満の指導もあり、1989年にはリーグ8位の打率.303を記録するなど、打者として成功しました。

1996年に中日ドラゴンズに移籍し、2000年に引退。2023年には、自身のYouTubeチャンネルで荒木大輔との対談が実現しています。

愛甲猛 vs. 荒木大輔 対談

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報徳学園・金村義明(1981年)

金村義明は、報徳学園のエース・4番打者で、3年時の1981年夏の甲子園(第63回選手権)で優勝。3回戦では荒木大輔のいる早稲田実業、準々決勝では藤本修二のいる今治西、準決勝では工藤公康のいる名古屋電気と並み居る強豪校を倒しての優勝でした。特に、注目の早稲田実業戦では、8回表を終わって0-4で負けていましたが、9回に追い付き、10回裏に劇的な逆転サヨナラ勝ちを収めています。

その年のオフ、ドラフト1位指名で近鉄バファローズに入団。投手としての入団でしたが、すぐに打者(内野手)に転向します。これが奏功し、1986年には初めて130試合フル出場を果たし、規定打席にも到達。1989年にはリーグ優勝を経験しており、巨人とのあの日本シリーズ(3連勝の後に4連敗)では、全試合に三塁手としてスタメン出場しました。その後は中日、西武に移籍し、1999年に引退しています。

引退後は、持ち前のトークの上手さから、スポーツニュース番組、バラエティー番組などで活躍。金村の現役時代を知らない人にとっては、現職の方が有名かもしれません。

MBSラジオ『金村義明のええかげんにせえ~!』

MBSラジオ【金村義明のええかげんにせえ~!】(2023年7月31日)

池田・畠山準(1982年)

畠山準は、徳島県立池田高校のエース・4番打者で、3年時の1982年夏の甲子園(第64回選手権)で優勝。準々決勝では荒木大輔のいる早稲田実業を14対2と撃破すると、決勝の広島商業戦では一人で完投しただけでなく、自身もホームランを放ち、投打に渡って活躍しました。決勝戦も12対2と打線が爆発しており、当時の強力打線は「やまびこ打線」と呼ばれました。一学年下には、のちに巨人に入団する水野雄仁やクリーンナップを打つ江上光治がいて、池田高校のフィーバーは翌年も続くことになります。

その年のオフ、ドラフト1位指名で南海ホークスに入団。投手としての入団でしたが、1988年に打者に転向します。南海では今ひとつでしたが、1991年に横浜大洋ホエールズに移籍すると、右の強打者として活躍。1993、1994年には規定打席に到達し、それぞれ打率.282、.291と高打率を記録しました。特に、1993年の72打点はリーグ10傑に入る好記録です。

南海・投手時代の1984年に規定投球回、横浜・野手時代の1993年に規定打席数を達成した稀有な選手で、ドラフト制以降で達成したのは畠山だけです(2023年現在)。1999年に引退。

現在は、横浜球団(現在の横浜DeNAベイスターズ)に勤務しており、2023年には荒木大輔のYouTubeチャンネルに出演しました。
ドラフト制後、投打で規定到達は、NPBでは唯一の存在だ。「野手で規定到達した時は知らなかった。現役をやめてから、ウィキペディアを見て知りました。僕はそんなに話題にならなかったし。石井琢朗が(投手で)1勝していて(打者で)2000安打を打った。これは話題になりましたけど」。

畠山準 vs. 荒木大輔 対談

【猛打爆発】池田14-2早実を振り返る!畠山「実はあの練習は…」part①

PL学園・桑田真澄(1983年、1985年)

桑田真澄の活躍については、詳しく説明するまでもないでしょう。PL学園の主戦投手として、1年時の1983年夏の甲子園(第65回選手権)で優勝。特に、準決勝では、優勝候補筆頭の池田高校を7対0で下し、打者としてもエース・水野からホームランを放つなど、投打に渡っての大活躍でした。1年生で4番の清原和博とともにKKコンビと呼ばれ、池田のやまびこ打線に代わる新たな旋風を巻き起こします。

その後、2年生の春夏、3年生の春は甲子園に出場するも、それぞれ、準優勝、準優勝、ベスト4と優勝を逃す結果に。しかし、3年時の1985年夏の甲子園(第67回選手権)では、2度目の優勝を果たし、有終の美を飾りました。決勝戦では、清原が2ホームランを放って桑田の好投を助けています。最後の最後まで、KKコンビが主役の甲子園でした。

その年のオフ、ドラフト1位指名で読売ジャイアンツに入団。清原が巨人志望を公言するも、桑田が巨人に指名されるという驚く展開があり、当時は大々的に報道されました。その後の巨人での活躍は周知の通りです。清原とは、1997年に巨人でチームメイトになっています。

桑田真澄 vs. 片岡篤史 対談

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取手二・石田文樹(1984年)

1984年夏の甲子園(第66回選手権)は、茨城県立取手第二高校の躍進が目覚ましく、強豪校の箕島、福岡大大濠、鹿児島商工、鎮西にすべて快勝。絶好調のまま決勝戦を迎えました。決勝の相手はもちろん、PL学園。試合は、7回を終わって4対1と有利な展開でしたが、相手はさすがのPL。9回土壇場で追いつかれてしまい、延長戦に入ります。ところが、10回表に取手二高打線が爆発!一気に4点を奪い、8対4で優勝を決めました。後日談ですが、実は試合中、PL学園の桑田は血豆を潰していて思い通りのピッチングができなかったといいます。その年の国体の後、桑田がこっそり取手二高を訪れたというのは有名なエピソードです。

高校卒業後は早稲田大学に進学しますが、すぐに中退し、社会人野球の日本石油へ。都市対抗野球で活躍し、1988年、ドラフト3位指名で横浜大洋ホエールズに入団します。2年目の1990年には17試合に登板し、中継ぎで活躍しますが、その後は活躍の機会がなく、1994年に引退。2008年、直腸癌で41歳の若さで亡くなっています。

取手二 vs. PL学園

1984年(昭和59年)第66回全国高等学校野球選手権大会 決勝戦 取手二 VS PL学園

PL学園・野村弘(1987年)

KKコンビが卒業した翌年度のPL学園は、春の選抜は一回戦で敗退、夏の選手権は地方大会で敗退と、結果を残せませんでした。年度が変わって、PL学園復活の狼煙を上げたのが1987年。野村弘が3年の時です。

野村は、橋本清、岩崎充宏との投手3枚看板の筆頭として主に先発で活躍。PL学園史上初の春の選抜、夏の選手権(第69回選手権)の連覇を果たしました。当時のPLのメンバーには、先述の橋本に加え、立浪和義、片岡篤史一学年下には宮本慎也と、のちにプロで活躍する面々が顔を揃え、KKコンビのいた時よりも強いのでは?と言う人もいたほどです。

その年のオフ、ドラフト3位指名で横浜大洋ホエールズに入団。横浜では、1993年に最多勝利のタイトルを獲得し、6度の二桁勝利を記録するなど、チームの主力投手として活躍します。1998年には38年ぶりのリーグ優勝、日本一にも貢献しています。2002年に引退。

あまり知られていませんが、実は巨人キラーで、巨人との通算対戦成績はなんと25勝17敗。また、打撃にも定評があり、通算打撃成績は、打率.196 92安打 6本塁打 47打点と投手にしてはかなりの好成績でした。

因みに、登録名を "野村弘樹" に変えたのは1990年のことです。

野村弘(現:野村弘樹)

野村弘樹が、PL学園時代の本音を語る 一番辛かった◯◯とは?

PL学園・橋本清(1988年)

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