【訃報】甲子園の強豪・常総学院などの監督を務めた木内幸男さん死去。
高校野球の監督として、常総学院高校や取手第二高校を甲子園優勝に導いた木内幸男さんが24日、肺がんのため亡くなっていたことが明らかとなりました。89歳でした。
第一報はこちらです!
高校野球の監督として茨城の取手二高と常総学院を率いて、甲子園で合わせて3回の優勝を果たした木内幸男さんが24日、肺がんのため亡くなりました。89歳でした。https://t.co/lUCrX9fOKk#nhk_video pic.twitter.com/rc9EBfP70e
— NHKニュース (@nhk_news) November 24, 2020
木内さんは1931年、茨城県土浦市出身。土浦第一高校野球部の主将・コーチを経て、1957年に取手第二高校に就職。同校の野球部監督として1977年夏に甲子園初出場を果たし、さらに1984年夏には当時のPL学園「KKコンビ(桑田真澄・清原和博)」を撃破する形で茨城県勢初の全国制覇を成し遂げました。その際に見せた多彩な戦術は「木内マジック」と呼ばれ、一躍高校野球の名物監督として知名度を上げることとなります。そして翌1985年には開学して間もない常総学院高校へと移り、同校を甲子園常連校へと育て上げるとともに2001年センバツ、2003年夏の2度にわたり優勝。その後も休養期間を経て、2011年まで同校の野球部の活躍に貢献していました。
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木内さんの訃報に、かつての教え子や監督仲間から続々と追悼コメントが!
このたびの木内さんの訃報には、かつて常総学院で教え子であったDeNA・仁志敏久2軍監督や、1994年のセンバツ決勝で常総学院と対決した智弁和歌山高校の高嶋仁名誉監督など、多数の関係者が追悼のコメントを表明しています。故人の冥福を祈るとともに、各人のコメントを通じて甲子園の懐かしのシーンを思い出しておきましょう。
DeNA・仁志2軍監督
木内さんには入院前日に会いに行きました。既にご存知でしたが、そこで来季よりユニフォームを着ることをご報告させていただきました。
思い出は話せば尽きません。覚悟はしていましたが、今は悲しさと寂しさでいっぱいです。心よりご冥福をお祈りいたします。
帝京・前田三夫監督
お会いすると、たくさんのヒントをもらえる。読みがズバズバ当たる。あれがマジック。とにかく先を読むことに凄くたけている方だった。監督を退かれても常総学院へ練習試合に行くと、グラウンドへ来てくれて「前田さんと話したかったんだよハハハ」と出迎えてくださった。うれしかったな。
一言、一言に味があってヒントになったし勉強になった。夏の大会前にいつも練習試合をお願いしていた。木内さんの評価が聞きたかったから。「今年は弱いなあ」とか「今年は強いんじゃない」とか言ってくださる。
ウチに芝草(宇宙、現帝京長岡監督)と常総学院に島田(直也、現常総学院監督)君がいた時、沖縄国体で宿舎が一緒になった。そしたら木内さんが「一緒にやっつけたいものがあるから来てくれないか」と言われて「もちろんお手伝いしますよ」と。何事かと思ったら、近くのお店に(キープの)ボトルを入れていて、それをやっつけたかったらしい。
そんなお人柄が本当に好きでした。思い出は本当に尽きない。本当にショックです。
明徳義塾・馬淵史郎監督
えらいウマが合って、好きな監督さんでした。戦術も教えてもらいました。「木内マジック」とか「勝負にこだわる監督」と形容されていたが、教育的な監督だったと思う。昭和を代表する大監督でした。
智弁和歌山・高嶋仁名誉監督
初の全国制覇の相手なので印象が強い。選手をうまく操縦し、監督の意図する野球を選手が理解しているから「木内マジック」という野球につながると感じていた。甲子園での対戦は2度でしたが、抽選会場などでお会いするたびに野球の話をさせていただいた。本当に野球が好きな方でした。ご冥福をお祈りいたします。
中村順司氏(元PL学園監督)
桑田、清原の時と春夏連覇が懸かった立浪(和義)の時と、充実している時にいい試合をさせてもらった。いい思い出。木内マジックで選手の起用、交代など、戸惑うところもあった。