昭和を代表する喜劇王「榎本健一」
皆さんは「榎本健一」という人物をご存知でしょうか?戦前戦後の日本で活躍したコメディアンで、日本を代表する喜劇王として「エノケン」の愛称で知られていました。そんな榎本ですが、「名前は聞いたことがあるけど、具体的な活動内容までは…」といった方も多いかと思います。ここでは、日本の芸能界の礎を作り上げた重要人物のひとり、榎本健一を振り返ってみたいと思います。
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名前は知ってるけど…“エノケン”とは何をした人なのか?
榎本健一は1904年、東京生まれ。幼少よりやんちゃな性格で、演芸の聖地である浅草などに遊びに行くことが多く、自然と役者になる道を志していました。そして1919年には、浅草オペラで活躍した俳優・柳田貞一に弟子入り、その頃に初舞台を踏んでいます。さらに1922年にはコーラス・ボーイとしてもデビュー、佐々紅華の創作オペラ「勧進帳」に出演するなど活動の幅を広げました。
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1923年に関東大震災が発生すると、活動拠点を浅草から京都に移し、映画の撮影所があった嵐山で喜劇役者を志すようになります。そして1931年、ジャズシンガー・二村定一とのダブル座長で軽演劇(風刺を含んだ軽快で滑稽な、娯楽性を重視した大衆演劇)の劇団「ピエル・ブリヤント」を旗揚げ。1934年制作の「エノケンの青春酔虎伝」から1938年制作の「エノケンの風来坊」まで、13本の映画を残しています。
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エノケン・ロッパの時代が到来!
上述の劇団「ピエル・ブリヤント」の成功により、知名度が飛躍的に上昇した榎本。映画・演劇の興行を手がける松竹と契約し、浅草・松竹座で公演を重ね「下町のエノケン」と呼ばれるほどになりました。その人気ぶりは凄まじく、「エノケソ」といった、榎本を騙る偽物が全国各地に出没するほど。またこの時期は、声帯模写などの芸で人気を博していた古川ロッパと人気を二分しており「下町のエノケン、丸の内のロッパ」とも呼ばれていました。
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歌手としても、ポリドール専属として「私の青空」「月光価千金」といったヒット曲を輩出し、演劇の世界に留まらない順風満帆の活躍を見せていた榎本ですが、当時は第二次世界大戦が激化していた時代。そのため、コメディ色の強い映画・演劇の自粛が推奨される一方、“戦争に賛同する”趣旨の作品への出演が増加。40年代前半は人気の低下を余儀なくされます。
戦後、喜劇界の重鎮へ。
終戦後、榎本は再び復活を遂げます。「東京ブギウギ」の歌手として有名な笠置シヅ子とともに、有楽座の舞台に立つ一方、「エノケンのびっくりしゃっくり時代」「エノケンのとび助冒険旅行」といった映画に立つ続けに出演。前述の古川ロッパとも共演し、往年のエノケン・ロッパが復活したと当時の大衆を大いに沸かせました。
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怪我により足を切断、榎本に暗雲が立ち込める。
しかし50年代に入ると、舞台での怪我により脱疽を発症。右足の指の切断を余儀なくされてしまいます。さらに1957年には、長男が26歳の若さで死去。そして1962年には、病気により右足の切断を余儀なくされるなど不幸が続きました。かつてのように演じることは最早不可能となり、失意の中で自殺を図ることもあったといいます。その一方で、1960年には紫綬褒章を受章するなど、喜劇界の重鎮として榎本の功績は大いに評価されていました。
渡辺のジュースの素・CM
1960年の「渡辺のジュースの素」のCM。声で出演しています。
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晩年
晩年は怪我に苦しんだ榎本ですが、同じく指を失った喜劇王ハロルド・ロイドの励ましもあり、テレビドラマなどへ出演を通じて芸能活動を再開。義足を装着し、「意地悪ばあさん」「笑ってよいしょ」といった番組への出演を果たしました。「芸人は同情されたらおしまい」という考えを持っていた榎本は、義足であることを逆手に取り「義足を用いた芸」を披露することもあったと言います。このような前向きな姿勢が評価されたためか、1966年には芸術祭奨励賞を受賞しています。