鈍足!盗塁成功で新聞一面を飾る!
その肥満体型故にメジャーリーグでも屈指の鈍足として知られた。
1996年に初めて盗塁を成功させた際には、敵地にもかかわらずスタンディングオベーションが巻き起こり、フィルダーは塁上でヘルメットをとり両手を挙げて応えた。
また、その翌日には新聞の一面を飾ったほどである。
この初盗塁を決めるまでに1096試合も要しているが、これは盗塁を記録しなかったメジャー最多連続試合数である。
また、この年はもう一つ盗塁を成功させているが、フィルダーが盗塁を成功させたのは後にも先にもこのシーズンだけである。
息子プリンス・フィルダーもHR王に!
2005年にメジャーデビューを果たし、一塁手のポジションを獲得。見事レギュラーの座をライル・オーバーベイから奪い、オーバーベイを移籍させた。
2006年のWBC日本代表練習試合では杉内俊哉(福岡ソフトバンクホークス)からホームランを放っている。
同年のシーズンでは4月に月間最優秀新人に選ばれるなど活躍し、打率.271、本塁打28、打点81をマークした。
2007年には猛打が爆発し、5月にはチーム史上最多の月間13本塁打を放つ。この月の月間MVPに選出。6月には自身初のランニングホームランを放った。
その後、オールスターに初出場し、初先発。オールスター後も本塁打を量産し、打率.288、50本塁打、打点119でシーズンを終え、メジャー史上初の親子50本塁打(セシル:1990年、51本)となった。
※2007年のシーズンはナリーグの本塁打王を獲得。
引退後は息子の代理人をするも自己破産!
引退後は、かねてから長距離砲として注目されていた、長男プリンス・フィルダーの代理人に専念する。
2004年になって突然、「セシル・フィルダーがギャンブル癖で莫大な借金を抱えて自己破産した上に蒸発した」というニュースが流れた。
妻とも離婚、フロリダの豪邸はゴミが散らかり放題と悲惨な状況であった。
プリンスは父に代わる新たな代理人を雇うこととなった。
以後、プリンスとは疎遠となったが、その後フィルダーの消息は判明し、事なきを得た。
セシル・フィルダーはその後、独立リーグの監督を務める等して野球界に復帰しました。
2015年は少年野球の指導をしていました。
息子のプリンス・フィルダーは日本でいつかプレーしたいと言っています。
社交辞令かも知れませんが、もし阪神でのプレーが実現したら父が叶えられなかったホームラン王を獲得して欲しいですね!小指は折らずに!
2015年は少年野球の指導をしていました。
息子のプリンス・フィルダーは日本でいつかプレーしたいと言っています。
社交辞令かも知れませんが、もし阪神でのプレーが実現したら父が叶えられなかったホームラン王を獲得して欲しいですね!小指は折らずに!