アルゼンチン元エース、ディエゴ・マラドーナは悪童だったのか?神の子だったのか
2016年11月25日 更新

アルゼンチン元エース、ディエゴ・マラドーナは悪童だったのか?神の子だったのか

ディエゴ・マラドーナは、アルゼンチン・リーグ史上最年少(13歳)でプロデビューし、ボカ・ジュニアーズなどを経て欧州に渡った。FCバルセロナではさまざまな問題に陥り活躍しきれなかったが、SSCナポリではセリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回の動力源となり、「ナポリの王様」としてファンから愛された。アルゼンチン代表エース10番として1986年の本大会で優勝、代表でも大活躍したが、1997年に現役引退から年月が経った現在でも彼の信奉者多い。特にアルゼンチンではマラドーナを「神の子」と崇拝され、ナポリでは「フットボールの王様」として讃えられている。 1977年に歴代最年少(16歳)でアルゼンチンA代表にデビューし、1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権で優勝して大会最優秀選手に選ばれた。

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ナポリSSCでのマラドーナの評価

1990年から1991年にかけて、麻薬使用や愛人問題、マフィアとの関連が報道されてマスコミから集中砲火を浴び、イタリアサッカー連盟から15ヵ月間の出場停止処分を受けた。喧嘩別れのような形になったが、後にSSCナポリはマラドーナの功績を称えて彼の背番号10を永久欠番とした。SSCナポリ時代には税金を滞納し、税務局から3700万ユーロ(約40億円)もの支払いを求められており、イタリアに入国する際にはその都度金品を没収されている。

Jリーグへの移籍話

1991年にはJリーグ発足に向けて補強を進めていた名古屋グランパスエイトへ、年俸や契約金を併せ総額15億円という契約で入団がほぼ内定していた。交渉は順調に運び、残すは名古屋の親会社であるトヨタ自動車の決定を待つのみであったが、決まりかけた日本行きはマラドーナのコカイン使用疑惑によって立ち消えとなった。
夢に終わったJリーガーのマラドーナ

夢に終わったJリーガーのマラドーナ

リーガ・エスパニューラ

その後、FIFAが移籍交渉に介入したこともあり、1992年9月にスペインのセビージャFC移籍が決定。チケット売り上げという点ではクラブに貢献したが、荒れた生活や怠慢な練習態度などからビラルド監督と対立し、26試合に出場してわずか5得点しか挙げることができなかった。1993年6月のレアル・ブルゴスCF戦で後半開始早々に交代を指示され激怒し、アルゼンチンに帰国した。

アルヘンチーノ・プリメーラ・ディビシオン

1993年10月、セビージャFCとの契約の残り期間に対して400万ドルを支払う条件でアルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズに移籍した。アルフィオ・バシーレ監督によってアルゼンチン代表にも復帰したが、契約問題のこじれからニューウェルズでは7試合しか出場できず、練習不参加や試合欠場などの理由により1994年2月に解雇された。1994 FIFAワールドカップのドーピング違反でFIFAから再び15ヵ月間の出場停止処分を受け、処分期間中は国内2チームの監督を務めた。

空気銃を記者団に撃ち込む

逮捕されるマラドーナ

逮捕されるマラドーナ

1994年2月、自身の別荘に押しかけた報道陣200名に対して空気銃を乱射し、数名に軽症を負わせた。記者によって告訴され、アルゼンチンサッカー協会のフリオ・グロンドーナ会長などはマラドーナの罪を重く見たが、アルゼンチン国民やカルロス・メネム大統領はより同情的で、法的な処置は未決定となった。

プレースタイルと戦術

選手時代のプレースタイル

身長は160cm台半ばと小柄でずんぐりとした体格であるが、フィジカルが強靭で[92]ボディバランスと洞察力に優れ[93]、卓越したテクニックとパスセンスを持っている。ほとんどすべてのプレーを左足一本で行い、前述の「五人抜き」ドリブルの際も左足しかボールに触れていない。類稀な得点能力を持っており、フリーキックも得意である。
フロンターレ監督の風間八宏は当時のマラドーナについて「顔の前に1メートル四方の空間を確保できれば、マラドーナにとってフリーといえる」と語った。
マラドーナのドリブルには着いていけない

マラドーナのドリブルには着いていけない

マラドーナ フットボールの神

指導者としての戦術

アルゼンチン代表監督時代にはDFラインにセンターバック4人を並べ、ボランチのマスチェラーノと共に守備を任せた。攻撃はメッシ、テベス、イグアインらの個人技による局面打開を目指した。攻守分担型で典型的な4-2-4のスタイルは「1930年代のサッカー」とも評された。複数の戦術を使い分けるのではなく、終始一貫して攻撃的な姿勢を貫き、準々決勝・ドイツ戦では劣勢に陥った時に別策がないことを露呈した。常に選手の目線に立って物事を考えるため、選手のモチベーションを上げる人心掌握術は評価されており、選手からの信頼は厚い。ワールドカップ直前にUEFAチャンピオンズリーグを制したインテルの中心選手だったミリート、サムエルをほとんど起用せず、同じくカンビアッソやサネッティは招集さえもしなかったため、その起用法には疑問の声もあった。

個人成績

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