東映の岡田茂社長(当時)は「映画製作はファッション。絶えず大衆の求めているものは揺れ動いている。これについてゆくためには、まったく別の発想のモノを入れ込むこともやらにゃダメ。角川春樹クンに頼んでシャシン入れてもらったのも、西崎クンが入って来てアニメ映画の革命を起こしたのも、みんなそれ」などと述べている。
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年8月5日・東映系で公開) 前作の2倍以上の21億円とアニメ映画史上に残る大ヒットとなった。
1978年の日本映画では、配収21億5000万円の『野性の証明』に次ぐ2位の興行成績を記録したヒット作品となった。公開当時の1978年時点では、戦後日本映画の配給収入記録としても、『八甲田山』『人間の証明』『野性の証明』に次ぐ4位に入り、本作のヒットは日本映画界にとっても事件だった。
1991年公開の『魔女の宅急便』が配給収入21億5000万円を記録するまで、アニメ映画の興行成績(金額ベース)の記録を保持した。
1/700スケール表示のヤマトは初年で31万個、1個100円のヤマトメカコレクションは初年度で合計850万個と大ヒット。
ヤマトによって形成された世代層向けに、本作の成功面と失敗面を研究して『機動戦士ガンダム』が企画されたことを、日本サンライズに在籍していた飯塚正夫や元社長の山浦栄二と吉井孝幸が証言している。
元々『機動戦士ガンダム』の企画は、宇宙空母ペガサスを主役として企画されたものだった。バンダイにとっても、ヤマトのプラモデルのノウハウは、ガンプラに活かされることになった。
『新竹取物語 1000年女王』
『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』で爆発的なブームを巻き起こしていた松本アニメブームはこのとき既に陰りを見せており、アニメファンの注目は同時期の『機動戦士ガンダム』へ移行し、『999』ほどの人気は得られずにこのプロジェクトは終了した。
漫画版『新竹取物語 1000年女王』(1980年1月28日から1983年5月11日まで連載)
原作者松本の筆によるwebコミックで彼女が雪野弥生として1001年から2001年の間を地球で暮らしたことを語る場面があったため、後述の『レジェンド』及び『宇宙交響詩-』は、原作漫画からの続きとみられる。
TV版『新竹取物語 1000年女王』(1981年4月16日から1982年3月25日まで)
via twitter.com
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映画版『1000年女王』(1982年3月13日に東映系で公開)
via harumaki.tokyo
映画版では弥生が息を引き取る場面が直接描かれておらず、雨森教授から「死んだ」と語られてはいるものの、終盤で納棺され運ばれてゆく女王の顔が青いガラスの中から振り返るかのようにアップして目が開くカットがあり、「実は生きていた」ともとれる描写となっている。
映画版とTV版の脚本を担当した藤川桂介による、映画版のノベライズ本では死んだことになっているが、原作者の松本は秋田書店『マイアニメ』1982年5月号で「催眠術にかかっていて目を閉じていた」という趣旨の発言をしており、製作者の間でも見解が分かれている。
OVA作品『メーテルレジェンド 交響詩 宿命』 ラーメタルに帰還した弥生が機械帝国の女王プロメシュームへと変貌していく過程が描かれた。
『1000年女王』の後日談ということで、最初は黒いドレス、赤い冠をつけた姿で登場。
だが次第に増殖する機械に蝕まれてゆき、物語の終盤で能面のような白い顔と、体に宇宙空間を投影した機械化人へと変貌を遂げる。