日本のネオ・スカバンドの奔り「レピッシュ」
彼らは、自分たちの音楽がジャンル分けされるのを嫌ったが、「レピッシュ」は明らかに日本でのネオ・スカの動きを支えたバンドのひとつだった。代表曲は、今でも、彼らの2枚目のシングル「リックサック」だと思っている。
LÄ-PPISCH - リックサック(1988) PV - YouTube
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LÄ-PPISCH レピッシュ 「無敵のサラリーマン」 PV - YouTube
作詞・MAGUMI / 作曲・上田現
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スカって何
スカは、ジャマイカ発祥のルーツ音楽。1970年代後半の「ネオ・スカ」(海外では「2トーン・スカ」という)のブームを境に、それまでの「オリジナル・スカ」とそれ以降の「ネオ・スカ」に分けられる。
では、オリジナル・スカとは何か?
では、オリジナル・スカとは何か?
スカの発祥については諸説ある。感度の悪いラジオで、ニューオーリンズなどアメリカ南部の都市のラジオ放送局からのジャズの2・4拍めが強調されて聴こえたため、誤ってコピーされたという説もある。直接的には、1950年代からのアメリカのリズム・アンド・ブルースと、ジャマイカの音楽文化には欠かせないサウンド・システムの影響が大きいが、それ以前にジャマイカにはジャズの下地があり、スカ以前のメント、ラスタファリアニズムの影響があった。
1960年代初め、スカは急激にジャマイカの音楽シーンを席巻しはじめた。アップテンポの裏打ちは1962年のジャマイカ独立を祝う気持ちと一致していた。例えばデリック・モーガンの「Forward March」やザ・スカタライツの「Freedom Sound」は、ジャマイカ独立を記念した曲である。スカのバンド編成がジャズバンドと同じため、ジャマイカン・ジャズ (Jamaican Jazz) とも呼ばれるが、これは、初めて海外にスカが紹介された1964年ニューヨークで開催された国際見本市において、ジャマイカン・ジャズと説明されたのが始まりである。この見本市では、バイロン・リー&ドラゴネアズ、プリンス・バスター、エリック・モリス、ピーター・トッシュらが選ばれ、演奏した。当時のジャマイカの音楽プロデューサーたちはスカを海外に波及させようとしていて、それをジャマイカ政府が支持していた。このような指向性でのスカは、積極的にメントなどのジャマイカの旋律の復活が試みられた。歌詞のある曲については、ブルース・バスターズの「Wings of a Dove」、エリック・モリスの「Oil in My Lamp」、ジミー・クリフの「King of Kings」、デズモンド・デッカーの「Israelites」など、キリスト教(ラスタファリズムではない)の復活を反映させたものが目立って多かった。その他の歌はほとんどが大衆的で、ジャマイカンパトワを必要としないナンセンスな内容だった。エリック・モリスの「Humpty Dumpty」や「Solomon Gundie」、デルロイ・ウィルソンの「Dancing Mood」などは、もっと後に生まれるロックステディとの橋渡しをする曲と言える。
Dandy Livingstone - Rudy a Message To You - YouTube
オリジナル・スカの代表的な曲。1967年リリース。
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80年代のスカブーム
80年代は、音楽の多様性というか、プレイする側も、聴く側も選択肢が大きく増えた時代だった。「スカ」もその一つで、特に、英国発の「ネオ・スカ」(「マッドネス」や「ザ・スペシャルズ」など)はコマーシャルにも使われ、一時的にブームになった。
1970年代末には、イギリスでモッズスタイル、パンク・ロックとスカを融合した荒々しいサウンドの2トーン・スカが隆盛。主なバンドとしてマッドネス、スペシャルズなどがある。なお、2トーン・スカと区別するため、1960年代ジャマイカ産のスカをオリジナル・スカ (Original Ska) 、あるいはオーセンティック・スカ (Authentic Ska) と呼ぶこともある。
1980年代前半に、アメリカでフィッシュボーンがスカとパンク等を融合したクロスオーバーと呼ばれたロックを展開(時期を同じくして、日本ではレピッシュが活躍)。 その後、米の代表的なネオスカバンドトースターズのボーカリストであるバケットが、オーセンティック・スカ~パンク系までのオールマイティーなスカレーベルムーンスカ・レコードを設立。アメリカにおいて「サードウェーブ・スカ」と呼ばれるムーブメントを引き起こした。 一方ヨーロッパでは、下火ながらも2トーン・スカのスタイルも継承し続けられ、日本ではネオスカと呼ばれ、世界的にはPOST 2TONE等で呼ばれる。
Madness - One Step Beyond - YouTube
1979年に発表された同名のデビューアルバムの収録曲。
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The Specials - Little Bitch - YouTube
ネオスカの代表曲の一つ。ザ・スペシャルズの「Little Bitch」
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デビューまでの道のり
そうしたネオ・スカブームの元、1987年「レピッシュ」は「パヤパヤ」でデビューした。
明治大学軽音楽部(POP研)に籍を置いていた上田現と、明治学院大学の学生だった雪好が組んでいたテクノバンド「エレベーター」と、演技系の専門学校に通っていたMAGUMI、デザインの専門学校に通っていた杉本が組んでいたパンクバンド「スウィンドル」が合体して結成された。(ちなみに「スウィンドル」と「エレベーター」の接点は、この2つのバンドを兼任していたベーシスト山田剛久が、明治大の軽音楽部(POP研)に所属しており、2つのバンド共に、明治大和泉校舎・新学館地下室を練習の場所に使っていたこと。上田現・雪好・雪好の実兄であるガンダーラ金子(元スーパースランプ・聖飢魔II)は「エレベーター」のメンバーであった。)
アマチュア時代、レピッシュ名義での最初期ライヴ時のメンバーは、リードヴォーカル:松岡章、ギター:杉本狂市、サイドヴォーカル/パーカッション/トランペット/ダンス・パフォーマンス:MAGUMI、ベース:山田剛久、ドラム:奥井宏。その後間もなく奥井が脱退、ドラムは雪好に代わる。この時期、新宿ACB、目黒鹿鳴館でライヴ活動を展開するも、その後、松岡が脱退、MAGUMIがリード・ヴォーカル/トランペット/パーカッション担当となり、方向性を巡る試行錯誤を経て、1984年秋にキーボード:上田現が加入した。 この時期のメンバーを整理すると、リード・ヴォーカル/トランペット/パーカッション:MAGUMI、ギター:杉本狂市(恭一)、キーボード:上田現、ベース:山田剛久、ドラム:雪好。このメンバーで1985年初頭から積極的なライヴ活動を開始、出演した主なハコは、新宿ロフト、渋谷屋根裏、新宿NYアンチノック、下北沢LAアンチノック(現在の屋根裏。LAアンチノックのこけら落としLIVEはこの時期のレピッシュによるものだった)、下北沢T5、渋谷エッグマン等。この時期、当時の新宿ロフトにおける「昼の部」の動員記録を樹立する等して話題となり、また夏にはヤマハが主催したコンテスト『イーストウエスト』に出場、熾烈な東京都内の地区予選を勝ち抜いて中野サンプラザでの決勝にも出場した。しかしこのコンテストを最後にベースの山田が脱退、その穴を埋めるべく明大軽音部と掛け持ちでジャズ研にも所属していたTATSUが誘われ、メジャーデビュー時のメンバーが揃った。
LÄ-PPISCH レピッシュ 「パヤパヤ」 PV - YouTube
1987年9月発売のデビューシングル
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今でもこの曲が彼らの代表曲だと思っている。