バリ強! 田村(谷)亮子
2021年10月26日 更新

バリ強! 田村(谷)亮子

柔道を始めて4ヵ月で男子相手に5人抜き(5連勝) うち2人は病院送り。中3で世界選手権4度優勝のカレン・ブリッグスを28秒で1本勝ち。国際大会初出場初優勝を果たす。

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1995年9月、千葉県の幕張で世界選手権が行われ、田村亮子は4回戦で右肩を痛めた。
そして決勝戦で李愛月(中国)と対戦。
右肩をテーピングで固定した体で「有効」を2つ奪った後、試合時間残り10秒、いきなり
「来い、来い」
と挑発。
猛然と出てくる李愛月にもろ手刈りを決め、1本勝ち。
世界選手権2連覇を達成した。
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田村亮子のフィジカルは1993年くらいがピークだったといわれる。
それ以後、ある時期から乱取りをしていても息が上がるのが確実に早くなっていき

1994年アジア大会 - 試合1ヵ月前に左足小指靭帯断裂、
1994年福岡国際 - 腹壁膿瘍(へその裏側にうみがたまる)
1995年全日本体重別 - 試合18日前に右膝靭帯部分断裂

などケガが多くなり、1本勝ちが減った。
体力をアップ、維持するために積極的に筋力トレーニングを行った。
その結果、1年前の服が着られなくなるほど肩まわりが大きくなり、上腕、大腿が太くなった。
採寸してつくったアトランタオリンピック用の柔道着も1ヵ月半で小さくなってしまい、つくり直すことになった。

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1996年7月21日、アトランタオリンピック開幕。
バルセロナオリンピックの決勝戦以降、4年間、国内外を問わず公式戦80連勝中の田村亮子は、日本代表の全競技、全選手の中で最も「金メダル確実」といわれ期待されていた。
アトランタは映画「風と共に去りぬ」の舞台となった緑が多い美しい町。
コカ・コーラの本社があり、公民権運動家で暗殺されたキング牧師の出身地でもあったが、アトランタ空港に降り立った20歳の田村亮子の第一声は
「暑か!」
で、それは日本と似た湿気を伴った暑さだった。
柔道競技は、重い階級から進行していった。

初日
男子95kg超級、小川直也が準決勝でドイエ(フランス)に判定負けし、3位決定戦でもミュラー(ドイツ)に払い巻き込みで1本負け。
女子72kg超級、阿武敦子が1回戦、わずか30秒でダシルバ(ブラジル)の内股で1本負け。

2日目
男子95kg級、中村3兄弟の長男、佳央が4回戦敗退。
女子72kg級、田辺陽子がようやく銀メダルを獲得。

3日目
男子86kg級、吉田秀彦が1回戦1本負け。
女子66kg級、一見理沙が2回戦1本負け。

4日目
男子78kg級、古賀捻彦が銀メダル。
女子61kg級、恵本裕子が決勝でバンデカバイエに1本勝ちし金メダル第1号。

5日目
男子71kg級、中村3兄弟の兼三が金メダル。
女子56kg級、溝口紀子が準々決勝で惜敗。

6日目
男子65kg級、中村3兄弟の行成が決勝で判定負けし銀メダル。
女子52kg級、菅原教子が敗者復活を勝ち上がって銅メダル。

と金2、銀3、銅1個という成績。
そして7日目、男子60kg級の野村忠宏、女子48kg級の田村亮子が登場した。
田村亮子は、

1回戦、モスクビナ(ベラルーシ)、体落としで1本勝ち
2回戦、マルドナード(ホンジュラス)、背負い投げ1本勝ち
3回戦、トルトラ(イタリア)、優勢勝ち

と勝ち進み、準決勝で最大のライバルと目されていたキューバのアマリリス・サボンに大外刈りを炸裂させ、手をついてなんとか耐えたアマリリス・サボンにトドメの背負い投げで1本勝ち。
これで連勝記録を84に伸ばした。

1996年アトランタ五輪柔道女子48キロ級決勝 田村亮子Vs北朝鮮のケー・スンヒ / Women's Judo -48kg | Atlanta 1996 Olympics

決勝戦の相手は、ワイルドカード(3者委員会招待国枠)で出場し、勝ち上がってきた16歳の桂順姫(ケー・スンヒ、北朝鮮)。
もはや金メダルは間違いないと思われた。
敗者復活戦と3位決定戦が行われる間、田村亮子は控え室でウォークマンで安室奈美恵の曲を聴き、ウォーミングアップしたり、集中力を高めた。
決勝戦、作戦なのか、桂順姫は、「右前」にするべき柔道着を「左前」で着用し畳に上がった。
後に改正されたが、この時点で「右前」はルールとして明確化されていなかったため、試合はそのまま続行。
相手の襟を握る釣手(右手)の勝手が違う田村亮子は組手で苦戦。
一方、身長で10cm以上上回る桂順姫は、田村亮子の奥襟を持って、その動きとスピードを殺した。
試合は桂順姫ペースで進み、残り時間1分、
「もういくしかない」
田村亮子は思い切って払腰をかけたが軸足が滑って崩れ、逆に桂順姫が小外刈りで倒し
「効果」
を奪った。
残り時間23秒、焦る田村亮子は強引に技をかけ、それを審判が「偽装的攻撃(かけ逃げ)」とみなし
「指導」
までとられ試合終了。
試合が終われば速やかに開始線まで戻らなければならないが、田村亮子は畳にヘタリ座り込んで動けなかった。
2大会連続、銀メダル。
連勝記録ストップ。
衝撃的な、悪夢のような敗戦だった。
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4年間、積み重ねた練習と連勝記録、そして自信は4分間で失われた。
前大会ではすぐに「4年後に金メダル」といえたが、今回はシドニーオリンピックについて聞かれても「金メダル」と答えることは決してできなかった。
しばらくの間、何もする気が起こらず、約2ヵ月間休んだ後、福岡国際に向け練習を再開。
動きの鋭さやタイミングの絶妙さなど、らしさがなく、周囲には以前より小さくみえた。
「もう1度やり直そう」
そう思えるまで1年以上かかった。
1998年にトヨタ自動車に入社した田村亮子は、日体大大学院に通いながら、大学や警察などこれまでいったことのない道場に出稽古にいき、新しい環境、新しい緊張感、新しい練習、新しい相手、新しいストレスに身をさらした。
常に「明日がオリンピックのつもりで」練習。
足の位置を微妙に変えたり、捻りを加えたり、力学を応用したり、技の研究と改良にも取り組んだ。
1999年1月、福岡国際女子で9連覇を達成。
1999年10月、世界選手権4連覇を達成。
しかしまだ「シドニーで金メダル」というコメントは出てこなかった。
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1999年12月、 世界大会を4連覇しながら、未だオリンピックの頂点とは無縁。
シドニーで3度目の失敗は許されない。
しかしアトランタオリンピック以降は接近戦が減って、得意の背負い投げも影を潜めていた。
「初心を取り戻したい」
田村亮子は練習の拠点を東京から故郷の故郷の福岡に移した。
朝、小学校時代に行っていたように名島神社にいって砂浜ランニングと階段ダッシュ。
階段ダッシュは狭く急勾配の110段を石段を6往復。
最後はヘロヘロになって膝を両手で押すようにして石段を上がっていった。

シドニーへの挑戦 田村亮子

新トレーニングも導入した。
トレッドミルで3分間、全力で走った後、台の上に置かれたコップの前に立つ。
そしてその位置を記憶し、目を閉じてコップをとる。
コップをとった後は、またトレッドミルに戻って全力疾走。
そして再びコップの前に立つ。
それは疲労が蓄積しても集中力が切れないようにするトレーニングだった。

・「左!」「右!」とトレーナーの指示でコップをとる手をかえる。
・台との距離を長くして1歩前に出てからとる。
・目を閉じてジャンプしてからとる。

などとコップのとり方は段階的に難しくなる。
何度もコップがとれなかったり、台から落としたり失敗が続くとトレーナーが、
「疲労してからの正確性ね」
とトレーニングの目的を意識させた。

・ジャンプして1回転してからコップをとる

がなかなかできず、やっとできたとき田村亮子は思わず
「ヤァー」
と相手を投げたときのように声を出してしまった。
次の日は

・ジャンプして1回転して、一歩前に出てからコップをとる

に難易度を増した。
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集中力を高めるトレーニングは道場でも行れた。
柔道は顔が向いている方向に相手を投げる。
そのために相手の顔や足の向きで投げようとしている方向がわかる。
田村亮子は、まず目を閉じて組み、相手が技に入ってもらい、その技がなにか判断するトレーニングを行った。
次に引手だけ、釣手だけで行い、最終的に相手の襟や袖に触れるだけで行う。
こうして集中力を研ぎ澄ます訓練を行った結果、目ではなく感覚で相手の技を察知し、瞬時に防御し攻撃するという神業のような動きができるようになった。
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2000年4月9日、シドニーオリンピックの選考も兼ねた全日本体重別選手権が行われ、田村亮子は、左手小指の軟骨骨折、右手薬指の靱帯損傷というケガをしていたが、10連覇を決め、オリンピック行きのチケットを手に入れた。
1ヵ月後、熊本県でオリンピック代表の強化合宿が開始。
コーチの古賀稔彦から指導を受けた田村亮子は、その技術だけでなくオリンピックで大ケガを負いながら金メダルを獲った精神力も学ぼうと努めた。
5月下旬、個人的にシドニーに1週間滞在し、買い物や食べ歩きなどを楽しみながら現地を下見。
最大の目的は試合会場。
9月16日の本番の前にどうしても自分の目でみておきたかったという試合会場を40分間、歩きながらイメージを高めた。
これも過去2回のオリンピックでは行われなかった「メンタルリハーサル」というメンタルトレーニングだった。
7月下旬、オリンピック代表の3度目の合宿が北海道の清水町で行われた。
この合宿は強化の最終段階で、連日、6時間を超えるトレーニングと練習で、田村亮子を含め全選手の肉体は極限まで追い込まれていった。
10月、世界選手権の決勝で、田村亮子はアマリリス・サボン(キューバ)と対戦。
10連覇がかかった大一番を前に
「オリンピックの決勝と同じ。
絶対に結果を出さなくてはならない。」
と自分を追い込んだ。
試合開始1分、左手小指の軟骨を骨折。
1本どころか、有効も効果も奪えなかったが、粘り強く戦い、判定勝ち。
勝利への強い執念をみせた。
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2000年、
「シドニーは最高でも金、最低でも金」
25歳の田村亮子は、3度目のオリンピックが近づくにつれ、この言葉を繰り返し口にするようになった。
柔道着と帯にニックネームと全日本、福岡国際の10連覇を合わせて
「柔 10」
と刺繍。
トレードマークの赤い髪ゴムも金ラメ入りにした。
9月8日、成田空港内で音楽MD(ミニディスク)を4枚購入したところ、合計金額が偶然、11111円になり
「縁起がいい」
と喜んだ。
9時間半のフライトは機内では夕食をとった後、すぐに寝た。
翌日早朝、シドニー空港に到着。
女子柔道日本代表は、シドニー郊外の菅生学園研修センターの柔道場に移動し、すぐに練習を行った。
9月11日、園田義男、福園田勇がシドニー入りし、練習に合流。
9月12日、練習後、田村亮子は、吉村和郎監督、山口香コーチらと共に試合会場を視察にいったが、爆発物のチェックが行われていて入ることができず、ショッピング街を歩き、気分転換を行った。
9月15日、シドニーオリンピック開幕。
この日から日本柔道代表の首脳陣が監、練習場の敷地内立ち入り禁止、選手への直接取材禁止など報道規制を敷き、ピリピリムードが漂う中、田村亮子は
「普段通りやればいいのにですね」
とスマイル。
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