永山則夫連続射殺事件とは
1969年4月7日
— 大森博子 Hiroko Ohmori🐟🌥️ (@11111hiromorinn) April 6, 2020
連続ピストル射殺事件の容疑者として19歳の永山則夫を逮捕。1997年8月1日死刑執行(48歳)。逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。1983年、小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。 pic.twitter.com/B9n1BMIZre
コミュニケーション能力がまったく無く常識もモラルも感じられませんでした。
のちに獄中で猛勉強した永山則夫自身は自分がいかに無知で浅はかだったか悟るも死刑囚として執行までの間、獄中で過ごしていく事になります。
永山基準とは
やさぐれ紳士録 5
— 実験的銀幕紳士 (@samurai197683) June 6, 2020
『永山則夫』
連続ピストル射殺事件を引き起こした死刑囚(執行済)である。
無知であることが罪だったとばかりに、貧困に喘いだ悲惨すぎる生い立ちを元にした私小説を獄中で発表し、文学的評価を受ける。
この事件以降、彼の名が死刑判決の「基準」に冠されることとなった。
享年48歳 pic.twitter.com/mcw23y7GAp
1.罪質
2.動機
3.殺害方法(執拗性、残虐性)
4.被害者の数
5.遺族の感情
6.社会に与えた影響
7.犯人の年齢
8.前科
9.犯行後の情状
特に被害者の数に関しては、被害者2人というのが無期懲役か死刑のボーダーラインとなっています。言い方を変えれば、分かれ目です。
被害者1人なら無期懲役以下の刑、3人以上なら死刑という一般的な基準が出てきます。
永山基準が出来た経緯と死刑制度の関係
・1979年一審で死刑判決
・1981年の控訴審(二審)で減刑され無期懲役判決
・1983年三審で最高裁は二審判決を破棄し、東京高裁への差し戻しを命じます。
そして再び死刑判決が出されます。
永山裁判ではその後のすべての裁判において死刑制度の存続か、廃止に向けての弾みになるのかという観点でも注目されました。
永山基準とは(1審の死刑判決が破棄され、2審に減刑して無期懲役判決が出ている)控訴審がそのまま活かされて、標準になっていけば、死刑が無くなってしまうというところから出された基準ですよ。最初に死刑ありきと言ってもいい
「死刑確定でも永山は殺されない」はずだった!?
死刑執行の命令は法務省から出されますが、死刑囚の中にはその命令が出されずにある者の中には長きにわたって刑務所の中で獄死を待っている様な状態の死刑囚も何人か確かにいるとのことです。
特に永山則夫は獄中では懸命に勉強し、執筆活動に精を出し本も出しています。その印税を被害者遺族に送ったり、自分の生まれた環境が超貧乏だったということから貧困のために教育を受けられずに働かされているペルーの子供のための基金に使うなどしていました。
こうした永山則夫だったので海外でも永山則夫の存在は知られるところになるなど、死刑囚としては変な言い方ですが超有名人で超大物と言う印象です。
ただ検察側ではその逆でその様な有名な死刑囚に対して死刑執行することはこのようなこともあるようです。
有名な死刑囚ほど、死刑の執行は難しいのです。特に永山はその筆頭でした。しかし、検察にとってはその困難な死刑を執行することこそが、大きな存在アピールに繋がる。
1997年 神戸連続児童殺傷事件と永山死刑執行の関係
1997年5月27日、神戸連続児童殺傷事件: 神戸市須磨区で小学6年男児の切断された頭部が「酒鬼薔薇聖斗」による犯行声明文とともに見つかる。 pic.twitter.com/PKos8EAaNP
— 久延毘古⛩陶 皇紀2681年令和三年霜月 (@amtr1117) May 26, 2018
「神戸連続児童殺傷事件」通称「酒鬼薔薇事件」と呼ばれている14歳の中学生による残忍な事件です。
殺害した遺体の首を切断し、犯人の少年が通う中学校の正門に置くという異常さでニュースが報じられると震えあがるほどの衝撃を受けました。
酒鬼薔薇事件は世論も含めて『少年も極刑にするぞ』という千載一遇のチャンスだったわけです。
未成年の少年が起こした事件をきっかけに永山則夫も事件を起こした当時未成年者だったことから、検察側にとって執行のいいタイミングになってしまったのではないでしょうか。
いつか死刑執行されるとしても順番的には永山則夫よりも前に死刑が確定していた受刑者が10人以上いたと言われています。
その死刑囚たちよりも先に永山則夫の刑が執行されたという意味は大きかったのだと思います。当時の法務大臣は記者会見で永山の死刑執行の時期と神戸事件は関係がないと発言しています。
1968年10月8日、永山則夫が在日アメリカの横須賀基地に盗みに入り、基地から拳銃と実弾を盗み出したことから始まります。
拳銃を盗み出した目的があったわけではなかった様ですが、その後、東京プリンスホテルの庭園にいたところ、警備員に声をかけられ警察官と勘違いし射殺。
その後、後悔の念を持ち自殺を思うも死ぬ前に行きたかった京都に行った先の八坂神社境内で声をかけてきた警備員をまた射殺してしまいます。
その後、逃亡し国内を転々とし、函館・名古屋で殺人を繰り返していったという事件です。