15歳でフジテレビの人気オーディション番組、「君こそスターだ!」に出場した彼女は、見事に第18代グランドチャンピオンの座を獲得!
中学卒業と同時に上京した彼女は、当時の所属事務所社長の家に下宿しながら、毎日厳しいレッスンに明け暮れることに。
そして1977年3月25日、ついに彼女は「硝子坂」で歌手として芸能界にデビューを飾ることになる。ちなみに「硝子坂」の作曲は、当時様々なヒット曲を提供していた、宇崎竜童!
マンガの中では偶然テレビ局で会った、山口百恵と森昌子に応援されるエピソードが描かれているのだが、こうして数々の大物芸能人の協力と激励を受け、歌手高田みづえはデビューを飾ったのだ。
そして1977年3月25日、ついに彼女は「硝子坂」で歌手として芸能界にデビューを飾ることになる。ちなみに「硝子坂」の作曲は、当時様々なヒット曲を提供していた、宇崎竜童!
マンガの中では偶然テレビ局で会った、山口百恵と森昌子に応援されるエピソードが描かれているのだが、こうして数々の大物芸能人の協力と激励を受け、歌手高田みづえはデビューを飾ったのだ。
デビュー曲のキャンペーンで、多忙な毎日を送る彼女。
そんな中でも、郷里の祖父母への思いやりを忘れないのが、素晴らしい!
そんな中でも、郷里の祖父母への思いやりを忘れないのが、素晴らしい!
デビュー曲「硝子坂」のヒットにより、高田みづえへの業界内の評価も次第に高まって行く。
果たして彼女は、見事新人賞を取ることが出来るのか?
家族思いの彼女の挑戦はまだまだ続く。頑張れ、高田みづえ!
果たして彼女は、見事新人賞を取ることが出来るのか?
家族思いの彼女の挑戦はまだまだ続く。頑張れ、高田みづえ!
最後に
前述した通り、デビューして3ヶ月の頃に書かれた内容のため、デビュー曲「硝子坂」がヒット中!の辺りで話が終わってしまっている本作。
参考までにその後の展開を付け加えておくと、高田みづえはこの後、見事に1977年の各新人賞を総ナメにすることになる。
(第19回日本レコード大賞・新人賞、日本歌謡大賞・放送音楽新人賞、FNS歌謡祭・最優秀新人賞)
更に、デビューした77年と翌年の78年の2年連続で紅白歌合戦にも出場!その後1年あまりの低迷期を迎えるが、1980年にリリースした名曲「私はピアノ」で見事に復活を果たした。
参考までにその後の展開を付け加えておくと、高田みづえはこの後、見事に1977年の各新人賞を総ナメにすることになる。
(第19回日本レコード大賞・新人賞、日本歌謡大賞・放送音楽新人賞、FNS歌謡祭・最優秀新人賞)
更に、デビューした77年と翌年の78年の2年連続で紅白歌合戦にも出場!その後1年あまりの低迷期を迎えるが、1980年にリリースした名曲「私はピアノ」で見事に復活を果たした。
更に、彼女の活躍の場は歌だけでなく、当時大人気のドリフターズの番組や、同じく人気番組だった「カックラキン大放送」にも出演してコントにも挑戦!
アイドルでありながら、その高い歌唱力とバラエティやコントにも対応出来る能力の高さは、今も我々ミドルエッジ世代の記憶に強く残っている。
アイドルでありながら、その高い歌唱力とバラエティやコントにも対応出来る能力の高さは、今も我々ミドルエッジ世代の記憶に強く残っている。
1985年、当時大関だった人気力士の若嶋津関と結婚し、芸能界から引退することを決めた彼女。
今回の不慮の事故で、図らずも再びメディアに取り上げられることになったわけだが、YAHOOの検索ランキングにもその名前がランクインするなど、彼女が昔アイドル歌手だったことを知らなかった世代も多かった様だ。
今回彼女の歌の映像を見返したのだが、やはり今みてもその歌唱力の高さはスゴいものがある。当時リアルタイムで見ていた人も、名前は聞いたことがあるけど・・・という若い世代の方も、是非この機会に彼女の歌に触れて頂ければと思う。
今回の不慮の事故で、図らずも再びメディアに取り上げられることになったわけだが、YAHOOの検索ランキングにもその名前がランクインするなど、彼女が昔アイドル歌手だったことを知らなかった世代も多かった様だ。
今回彼女の歌の映像を見返したのだが、やはり今みてもその歌唱力の高さはスゴいものがある。当時リアルタイムで見ていた人も、名前は聞いたことがあるけど・・・という若い世代の方も、是非この機会に彼女の歌に触れて頂ければと思う。