黒柳徹子のふしぎ発見!  38歳でタマネギ頭、そしてノーブラになるまで
2022年8月2日 更新

黒柳徹子のふしぎ発見! 38歳でタマネギ頭、そしてノーブラになるまで

6歳のとき、演劇でキリストを演じ、羊役の子にティッシュペーパーを突きつけ「アナタ、羊でしょ。食べなさい」といってから、38歳でニューヨークへ演劇留学し、タマネギ頭、ノーブラになるまで。

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1954年、東洋音楽大学を卒業後、ラジオドラマ「ヤン坊 ニン坊 トン坊」のオーディションを受けた。
募集要件は
「大人で子供の声が出せる人」
これまで
「個性を引っ込めて」
といわれ続けていた徹子だったが、このオーディションで審査員をしていた飯沢匡に
「あなたの個性が必要なんです。
そのままでいてください」
といわれて合格し、トン坊役でブレイク。
以降、テレビ人形劇「チロリン村とくるみの木」、「ブーフーウー」でもさまざまなキャラクターの声を演じて一躍有名になった。
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飯沢匡、本名、伊澤 紀は、警視総監、貴族院議員、台湾総督を歴任した官僚政治家を父親に持ちながら、勉強嫌いで落第も経験し、最終的に美術専門学校を卒業。
朝日新聞東京本社入社後、アルバイトでNHKの台本を書いているのがバレないように
「印刷しては別人にみえ、発音すると本名のように聞こえる名」
ということで、
「伊澤 紀 (いざわただす) 」
という本名に対し
「 飯沢匡(いいざわただす)」
とペンネームをつけた。
戦後、朝日新聞で「婦人朝日」「アサヒグラフ」編集長を務めた。
広島に落とされた新型爆弾の暴こうと占領軍の目をくぐって手に入れ隠し持っていた巨大なキノコ雲の写真をアサヒグラフに掲載し、世界で初めて原爆の悲惨さを伝えたといわれている。
朝日新聞を退社後、「ヤン坊 ニン坊 トン坊」のオーディションを行ったが、以後も劇作家としても人道主義を貫きながら、子供番組や政治風刺劇を作成。
「私が最初にお会いしたのが40歳と少しくらいだった」
という徹子は、ずっと師弟関係を続け、ラジオ・テレビ・舞台と多くの作品を競作した。
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1958年、徹子は、テレビドラマ「お父さんの季節」で渥美清の妻役に。
同年12月、「第9回紅白歌合戦」で初司会。
当時、紅白歌合戦は現在ほどステータスがなく、歌手は自分の年末のコンサートと掛け持ちで生放送に出場。
それらが到着して、着替えて化粧をし直す間、司会はとにかくつながなくてはならず、徹子はエキストラの犬に
「オスですか?
メスですか?
メスなら紅組の応援になりますけど」
と話しかけて時間を稼いだ。
この初となる紅白の司会から22年後、1980年に「第31回NHK紅白歌合戦」で2回目。
それから81、82、83年と4年連続、司会を務めた。
さらに32年後の2015年、「第66回NHK紅白歌合戦」で通算6度目。
これはNHKアナウンサー以外の女性として最多記録である。
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1959年6月、アメリカで、大西洋とミシガン湖を結ぶセントローレンス海路が開通。
NHK女優第1号としてアイドルのような扱いでテレビに出ていた徹子は、東京都知事からのメッセージをシカゴ市長に渡すという大役を仰せつかって初渡米。
まずハワイに寄って給油した後、サンフランシスコで1泊したが、進駐軍以外の外国人がたくさんいることに驚き、黒人のポーターにチップをあげて
「Thank You!」
といわれ
「面白ーい」
と思った。
またサンフランシスコの街を歩いていると、みたことのないようなキレイなハタキを売っているのを発見。
「ピンクやブルーや紫のボカシが入っていて、フワフワでとってもかわいいの」
友人へのお土産にしようと思い、帰りにもう1度サンフランシスコに寄ることになっていたが
「売り切れたら困る」
と10本ほど購入。
スーツケースの中に入らなっかったため、以後ずっと移動の度に手で持ち歩いた。
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セントローレンス海路でのセレモニーが終わると、ニューヨーク観光を勧められ、ブロードウエイでミュージカルを初体験した。
「マイ・フェア・レディ!!!
映画「マイ・フェア・レディ」でもヒギンス教授役を演じたレックス・ハリソンと「サウンド・オブ・ミュージック」のジュリー・アンドリュースが共演していて、もうね、ひえ~~~って。
本当に打ちのめされました。
歌と踊りはもちろん素晴らしいんですけど、それだけじゃなくて、舞台装置も立派だし、衣装も素敵で、オーケストラも大迫力で、第一、演技がすごいでしょう。
こんなの日本ではできっこないと思いました。
それから私はただの1度も自分から「ミュージカルがやりたい」といったことはありません。
もちろん最近は日本でも質の高いミュージカルが上演されていますし、私も何本かミュージカルに出演していますけど、当時は本当にビックリしたんです。
こんなに豪華で迫力のあるエンターテインメントがあるのかと」
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初めてのアメリカの旅で1番感動したのが、グリーティングカードの豊富さだった。
「あちらはカードの国だから、スーパーでもいろんなカードが売ってるでしょ。
『ハッピーバースデー』だけでも、ありとあらゆるあげる相手が書いてある。
husband(夫)に、daughter(娘)に、son(息子)、granddaughter(孫娘)、grandson(孫息子)、それをみたときは「わーなんて素敵なのかしら、夢みたい!」と思いました。
だって私がそもそもNHKに入ったのは、子供に上手に絵本を読んであげられるお母さんになりたいというのが動機だったんですから。
いつか結婚して子供ができたときのためにとお小遣いのほとんどをカードで使ってしまいました。
でも結局、どれひとつ使えないまま 、ウンと後になって「あのときのカード、どうしたんだろう」って箱を開けたらノリがベッタリくっついちゃって。
無理に剥がそうとしたらバリバリって破けちゃった」
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ニューヨークの後、船はもう1度、サンフランシスコへ寄った。
シカゴ、ケベック、オタワ、ナイアガラ、ニューヨークと10日間持ち歩いた10本のハタキは、くたびて、色が褪せ、薄汚れていたが、買った店には同じものが売っていて、非常に損した気分になった。
そして
「行ったほうがいいですよ」
といわれてディズニーランドへ。
朝一番、開園と同時に入ると
「すごい」
「キレイ」
と大興奮。
大人がここまで夢中になるとは思っていなかった付き添いの人間は、
「後でまた迎えに来ます」
といって途中で帰ってしまったが、結局、22時の閉園まで滞在した。
「生まれて初めてのローラーコースターがマッターホルン・ボブスレー。
でもコースターだけはダメでした。
速いものが苦手なの。
そういうとすぐ「そんなに口は速いのに?」っていわれちゃいますけど。
1番好きなのは潜水艦とイッツ・ア・スモールワールド。
後はなんていう名前だったか忘れちゃったんですけど、暗い中をティンカーベルが先導してくれるアトラクションがあって・・・・
私、本来は暗いところが嫌いなはずなのにティンカーベルが先を行ってくれるだけでワクワクドキドキできたから・・・
それだけでも「ウォルト・ディズニーはすごいんだなあ」と空中を飛びながら思いました。
子供のためにあんなにきれいで楽しいものを提供するなんて。
ウォルト・ディズニーさんを心から尊敬したし、つくづく「アメリカはすごい」と思って日本に帰ってきました」
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1960年、20代後半、テレビとラジオのレギュラーが週10本となり、睡眠時間3時間という日々が続いた。
本番中に耳鳴や眩暈がしたため病院にいくと医者に
「過労」
「このままでは死ぬよ」
といわれ、1ヵ月入院。
禁止されていたテレビをみる許可が下りると、ハラハラしながら自分が出ていた番組をチェック。
しかし何事もなかったのように別の人に代わっていたり、渥美清の妻役も
「実家に帰っている」
とされていた。
「死ぬまで病気しない方法はイヤだと思った仕事はしないこと。
やりたいことだけをやりなさい」
という院長先生の言葉を胸に、退院後は8時間の睡眠を確保し、やりたいと思った仕事だけをやるようにした。
ただ
「人にどうみられようと何といわれようとやりたいこと好きなことを貫いて『私はこう!』と開き直るためには、ある程度の経験が必要」

「20~30代は40代に個性を確立するための準備期間」
といっている。
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1961年、子供向けバラエティ番組「魔法のじゅうたん」の司会となった。
番組のコンセプトは
「子どもたちに最高の夢をみせよう」
で、徹子が
「アブラカダブラ」
のいうと魔法のじゅうたんが子どもたちを乗せて空を飛び回った。
CGがない時代、魔法のじゅうたんが空を飛んでいるシーンは、まずヘリコプターでじゅうたんを空撮し、それに徹子と子どもたちの映像をはめこむ「クロマキー」という技術が使用された。


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4月、かねがね舞台出身の俳優の演技力の高さを感じていた徹子は、演技を学ぶためにNHKを退社し、文学座付属演劇研究所の3期生となった。
同期の宮本信子は
「同期生といっても私は18歳で、名古屋から出てきたばっかりで。
徹子さんはもうバリバリで本当に光り輝いていらっしゃった」
といっている。
江守徹も同期生で、このとき18歳。
徹子は
「私は少し年上でしたけど」
といっているが10歳上の28歳だった。
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