【電波少年】過酷な試練を乗り越えた彼らはいずこへ。ヒッチハイクをした人たちの今。
2017年1月19日 更新

【電波少年】過酷な試練を乗り越えた彼らはいずこへ。ヒッチハイクをした人たちの今。

バラエティ界に金字塔を打ち立てた伝説の番組「電波少年」。その企画の中でもとりわけ有名だったのが、「ヒッチハイク」でした。あのとき、過酷を極めた旅を終えた人たちは、今、何をしているのでしょうか。

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電波少年とは?

電波少年シリーズ

電波少年シリーズ

1992年7月5日から2003年2月22日まで、日本テレビ系列で放送されたバラエティー番組のシリーズ。
『進め!電波少年』、『進ぬ!電波少年』、『電波少年に毛が生えた 最後の聖戦』と続いた。
「アポなしロケ」、「ヒッチハイクの旅」、「懸賞生活」など無名の若手芸人による数々の奇抜な体当たり企画で人気を博した。全盛期には視聴率30.4パーセントを記録し、日本テレビの1990年代黄金期を支えた番組でもあった。放送時間枠は『進め!電波少年』第1回目から『雲と波と少年と』終了まで一貫して22時台(プライムタイム)の放送であったが(日曜 22:30 - 22:56→『電波少年に毛が生えた』以降は土曜 22:00 - 22:54)、プライムタイムの番組では通常見られないような、深夜番組の様な奇抜な内容の企画が多かったためか、電波少年シリーズが「深夜番組」であったと勘違いして記憶している視聴者も多い。

猿岩石

ユーラシア大陸横断ヒッチハイク

ユーラシア大陸横断ヒッチハイク

1996年(平成8年)4月スタート
1996年(平成8年)10月19日ゴール
軽い気持ちで引き受けた2人だったが、中国入国の際にビザが必要である事を知らず、いきなり香港で数日足止めを食らう事になった。所持金の10万円はすぐに底をつき、その後は日雇いアルバイトをしながら食費、交通費を稼ぎ心身ボロボロになりながらヒッチハイクを繰り返し西へと向かった。インドを過ぎた辺りから高い人気が出始め、視聴率は急上昇。他の企画が押されるはめとなり、松村降板にもつながった。爆風スランプによる応援歌「旅人よ」も発売されたり、ヒッチハイク時代を書いた「猿岩石日記」もシリーズ累計で250万部のベストセラーになったりと反響は大きかった。
猿岩石

猿岩石

太田プロダクション所属
1994年結成
2004年解散
(左)森脇和成
(右)有吉弘行
2004年3月に有吉のお笑い芸人志向、森脇の役者・音楽家・実業家志向と方向性の違いにより解散した。

解散後のメンバーの動向

有吉弘行
解散後もピン芸人として活動。再ブレイク前は、「一発屋芸人」であることを押し出した自虐ネタが多かった。竜兵会の一員であり、同会のメンバーとの競演も多かった。
2008年に辛口のあだ名をきっかけに、芸人として再ブレイク。2014年現在ではレギュラー番組を10本以上持ち、コンビ時代以上に多忙な芸人となっている。

森脇和成
2006年10月26日放送分『雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!』「元コンビ芸人」に出演し、実業家(株式会社スクラッチ専務)になっていたことを明かす。「白い雲のように」を歌い、それを観ていた有吉に「昔よりうまくなってる!」と言われている。2012年3月発売のDVDには、スタジオ裏での有吉との会話も収録されている。
2007年2月、家事手伝いの女性と結婚。しかし有吉をはじめ芸能関係者は結婚式や披露宴にはほとんど出席しなかったとされる。
2008年11月にESPバイオテック・ラボ(株式会社スクラッチから社名変更)を退職。2011年10月1日現在、時計業界に在籍していることが同社社長のブログで明らかになっている。
元芸能人として出演する機会も多く、2015年3月12日放送分「ヨソで言わんとい亭〜ココだけの話が聞ける(秘)料亭〜」に出演。この際、有吉と寿司屋でばったり会ったことを明らかにしている。現在は上記の女性と結婚後に子供を儲けるも離婚したことや都内にある輸入卸業の営業として勤務していることが明らかになった。

ドロンズ

南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク

南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク

1996年(平成8年)10月末スタート
1997年(平成9年)12月31日ゴール
彼らの旅は常に出会いを大切にする旅であり、ドキュメンタリー色が強かった 。アルゼンチンで、地元の人のアドバイスにより小学校でスペイン語を勉強し、日常会話に支障がないほどに習得する。ペルーでは地元テレビ局のプロデューサーに気に入られ1カ月近くバラエティ番組に出演し、またアメリカではキャンピングカーで旅をしている男性が、体調不良になった大島直也の入院費を全額負担してもらうなど、人との触れ合いが多かった。一方、同行ディレクターが見知らぬ男に暴行される、ヒッチハイクした車がスピードの出しすぎで横転する事故に遭うなど、一歩間違えば生死に関わるようなトラブルも多かった。
ドロンズ

ドロンズ

マセキ芸能社所属
1995年結成
2003年解散
(左)大島直也
(右)石本武士
2003年、大島が役者を目指すことを理由にコンビ解消。
その後石本はドロンズ石本としてタレント活動、大島は俳優業の傍ら、ちりとり鍋の店「ちりとり鍋 大島」の店長(オーナー)として活躍。石本ものちに馬肉専門の店「馬肉屋たけし」を開業する。店はともに恵比寿にある。
現在も交流があり、プライベートでは一緒に食事をすることも多く、誕生日等のイベントでは互いの店で打ち上げをする仲。解散前に比べると頻度は大きく落ちるが、まれに仕事でも共演することがある。

朋友

アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク

アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク

1997年(平成9年)12月スタート
1998年(平成10年)11月ゴール
猿岩石・ドロンズに続く、ヒッチハイク第3弾および完結編。懸賞生活と同時期にスタートした企画。俳優を目指していた伊藤高史がTプロデューサーに連れ出され、成田空港から南アフリカ・喜望峰まで移動。着いた先で当時香港でDJだったチューヤンこと謝昭仁(チェ・チューヤン)が合流、ヒッチハイクでアフリカ・ヨーロッパ大陸を縦断してスカンジナビア半島まで目指す企画だと明かされてスタート。
伊藤 高史

伊藤 高史

俳優
2010年1月1日より東京セレソンデラックスに正式加入。同年4月1日、所属事務所を融合事務所から系列事務所の有限会社バイ・ザ・ウェイに移籍したことを発表した。
2010年11月19日、東京セレソンデラックスのTwitterおよび公式携帯サイトにて、ヘアメイクの女性と入籍したことを発表した。
2012年12月31日、所属していた劇団東京セレソンデラックスが解散、事務所も退社しフリーとなった。
2013年安藤亮司と共に劇団ウルトラマンションを立ち上げる。
2015年1月1日からモラドカンパニー預かりになる。
劇団立ち上げに伴い執筆活動も始め2015年の龍が如くの舞台では出演の傍ら脚本協力もしている。
チューヤン(本名:謝昭仁)

チューヤン(本名:謝昭仁)

香港の広告ディレクター、グラフィックデザイナー、ラジオパーソナリティ
2005年(平成17年)2月、「父親の体調が良くないので、そばにいてあげたいと思った」として日本の芸能界を引退した。引退して帰国する際、梨元勝に成田空港で質問され、「勉強になったし、楽しかった」と語った。
芸能界引退後
2009年(平成21年)1月にプライベートで来日。松本明子、土屋敏男(『電波少年』シリーズのプロデューサー)らと再会、第2日本テレビの番組『デジタルの根性』でのインタビューで芸能関係の仕事を一切辞め、香港の広告代理店でクリエイティブディレクターとして働いていることを告白した。
2009年(平成21年)11月、専門学校時代からの同級生と結婚。
2010年(平成22年)10月5日、『超豪華!!スタア同窓会 ゲゲゲッ!の再会』内の企画『「電波少年」同窓会』に出演した。それ以後は日本のテレビ番組に稀に登場するようにもなる。
2014年(平成26年)1月27日放送『有吉ゼミ 2時間SP』の「あの人は今…食えているのか」のコーナーにVTRで出演。現在は広告ディレクターとして活躍し、年収60万香港ドル(約950万円)を稼いでおり、「ちょっと良い感じに食えている」と語った。
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