「舘ひろし」「岩城滉一」いまやダンディーとしかいいようがない二人の名優
二人の原点はバイクチームの「クールス」
1975年結成、現在も活動中
当初は、そのファッションや成り立ちから「不良」を売り物に。
バンド結成当初はコンサート会場にファンの暴走族が集結したり、その他のファン層も不良少年が多かった。
二人がいたころのクールスを振り返る
舘ひろしと岩城滉一の出会い
当時の舘ひろしはバイクの免許を持っておらず、岩城に勧められて岩城のバイクに二人乗りして教習所に通ったそうです。
なんだかドラマのワンシーンのような二人の出会い
結成(バイクチーム「クールス」)
当時、クールスに憧れた人も多かったことでしょうね
舘がリーダー、岩城がサブリーダー
結成に際して「このチームはリーダー(舘ひろし)の独裁により運営される」という血判状を作成したという。舘ひろしはカワサキのZIIに乗っていた。
チーム結成当時の人数は21人で、全員リーゼント・黒の革ジャンパー・黒または青のジーンズ・黒のオートバイで統一される(「黒」にこだわったのは、舘ひろしが学生時代に、ラグビー部の主将をしていて、「オールブラックス」が好きだったから)。
1975年4月13日、矢沢永吉率いる「キャロル」の解散コンサートで親衛隊を務める。これはローリング・ストーンズがヘルズ・エンジェルスを親衛隊にしてコンサートを行なったことに影響されて、矢沢が舘に同じような演出をしたいと持ちかけたもの。キャロルの解散コンサートを収録したDVD(一部カット編集)にはバイクチーム時代のクールスの走行場面が映っており、また、岩城滉一がキャロルとの思い出を語ったり、舘ひろしがキャロルメンバーにインタビューしたりする場面などが収録されている。
矢沢栄吉率いる「キャロル」との関係
よって「クールスはキャロルの弟分バンド」「矢沢永吉は舘ひろしの兄貴分」という認識は誤りであり、またその後のクールスの音楽性もキャロルとは異なるものであった。
【キャロル】矢沢永吉の名とともに日本ロックシーン史における伝説となったロックバンド!|Middle Edge(ミドルエッジ)
第1期 クールス
バンド結成時に岩城は脱退
キャロル解散後の1975年9月、チームの中から選抜された7名とバンド結成から参加の大久保喜市の計8名で、アメリカンロックンロールバンド「クールス(COOLS)」としてシングル「紫のハイウェイ」でデビュー。その際、岩城滉一は参加しておらず、そのまま俳優となった。岩城が参加しなかった理由は、すでに俳優としてデビューすることが決定していたからであった。
キャロルが、ビートルズを手本とした8ビートのブリティッシュロックンロールだとすればクールスは、4ビートのアメリカンロックンロールであり、舘が手本に考えていたのはアメリカンロックンロールバンドのシャ・ナ・ナ(en:Sha Na Na)であった(それは舘・水口・村山の三人ボーカルにも表れている)。
バンド結成時のメンバーは、リーダー舘ひろしがバイクチーム内から音楽・楽器の経験者を選抜した。
キングレコードから『黒のロックンロール』『ロックンロール・エンジェルス』『東京直撃』『ハローグッドバイ』の4枚のアルバムを出す。また『暴力教室』『男組~少年刑務所』などの映画にも出演。
1977年4月に舘も脱退
舘は脱退後キングレコードに残り、「舘ひろしとセクシーダイナマイツ」を結成。その後ソロとなり、そのまま俳優として東映に所属。その後石原裕次郎に俳優としての才能を見い出され、石原プロモーションへ移籍する。
ここでロックバンドとしてのクールスは事実上一旦解散したといわれる。実際に解散コンサートも行われ、それを録音したのが前記の『ハローグッドバイ』である。そのため、現在のクールスとは別だという説もあるが、舘ひろし以外のメンバーで続けられたのも事実である。舘以外のメンバーはこの時点ではすべて解散に反対し、残留してバンド活動を続けていた。
若い時代に散々やらかした男たちにとって
渋い年齢の重ね方のお手本でしょうね。