80年代後半~90年代前半、巨人のレギュラー「岡崎郁」
1961年6月7日生まれ。大分県出身。
身長 178 cm。
巨人(読売ジャイアンツ)の選手だった。
オープンスタンスでの勝負強いバッティングから篠塚二世と呼ばれた。
右投左打、ポジションは遊撃手・三塁手。背番号は45→5番。
1979年、ドラフト3位。
初出場 1982年10月5日。
最終出場 1996年5月8日。
高校からプロ入りまでの岡崎郁
【甲子園には投手と遊撃手で出場!】
作新学院に5-1で完投勝ちして、2回戦に進んだ。しかし、東洋大姫路に敗れた。
同年夏の甲子園には遊撃手として出場。
2年生エース松本健(東芝大分)の好投もあって準々決勝に進出するが、横浜商の宮城弘明に抑えられ敗退した。
【進学志望の岡崎に長嶋監督がラブコール!】
高校卒業後は、法政大学に進学予定で、プロ入りの意志はなかったのですが、夏の甲子園をテレビ観戦していた、当時の長嶋茂雄監督が、その打撃センスに惚れこみ、巨人はドラフト指名に踏み切ります。
巨人からのまさかの指名にも、進学の意志を曲げるつもりはなかったのですが、指名後の挨拶に長嶋監督本人が訪れ、直接交渉し、「これから10年は監督をやる。その間に君を一人前にする」とのラブコールを受け、岡崎選手は、大学進学の想いを貫き通す事ができずに、巨人入団を決めます。
しかし「10年で君を一人前にする」と言った長嶋監督は、翌1980年限りで解任されてしまうのですが...。
巨人入団後の岡崎
当時の巨人には、中畑清や篠塚利夫、原辰徳などがいて、なかなか出場機会に恵まれなかった。
そして、肋膜炎も患い、療養生活を送ることになってしまったため、1984年は練習生扱いとなった。
1985年から一軍に定着、河埜、石渡茂と遊撃手のレギュラーを争い、シーズン後半には定位置を奪取した。
1987年には、失策2で守備率.994と遊撃手としてのシーズン守備率の日本記録(当時)を打ち立てるなど、レギュラークラスの働きを見せるも、規定打席到達は果たせないでいた。
しかし入団10年目の1989年、当時の監督藤田元司に勝負強いバッティングを見出され、キャンプではサードを中心にファーストもこなすなど、コンバートがなされた。オープン戦で首位打者を獲得し、開幕戦はファーストでスタメン出場。
その後、中畑清のケガにより、サードに定着した。
1987年頃のCM オロナミンC 巨人軍 槙原、岡崎選手など
親友・駒田徳広との「恐怖の6・7番コンビ」は、第2のクリーンナップとして他球団から恐れられ、1989年の日本一、1990年のリーグ優勝に貢献した。
応援歌の歌詞は「それゆーけ、はじけるパワー♪それゆーけ、きらめくセーンス♪」だった。
1989年からオールスターゲーム・4年連続セ・リーグ三塁手部門ファン投票選出、日本シリーズでは1989年優秀選手、1990年敢闘賞。翌年からは選手会長・主将も務めた。
1993年は4番打者も務めるが、原辰徳がサードに再コンバートされた影響で出場が激減した。
1994年は原が故障で出遅れた事もあり開幕から積極的に起用されたが、1995年以降は、持病の腰痛・背筋痛に悩まされ、他にも元木大介の台頭や仁志敏久の入団があり、出場試合数が減少した。
1996年に引退。岡崎の背番号「5」は移籍をしてきた、清原和博へ継承された。
「3連敗後の4連勝」で、藤田巨人の日本一に大貢献した。