西武ライオンズ黄金期を支えた辻発彦のプロフィール
辻は1958年佐賀県生まれ。佐賀東高校で野球部に入る。歴史の浅い高校ということもあり、甲子園出場はならなかった。もともとは小柄だったが高校在籍時に身長が一気に20cm近く伸びる。西武時代は周りに清原や秋山など大柄な選手が多かったことで、小柄なイメージがあるが、決して小柄ではない。
卒業後は社会人の日本通運浦和に所属。最初はレベルの違いを感じていたが、4年、5年と続けていくうちに徐々に力をつけていき、4番打者を打つようになった。ちなみに当時の守備位置は三塁。二塁を守るようになったのはプロに入ってからだった。
1983年秋のドラフト会議で、西武ライオンズが2位という上位で指名した。
当時の監督は昭和の名遊撃手とうたわれた広岡達朗。広岡直々のノックで鍛えられた辻は、人並み外れた練習量とセンスの良さでそれに応え、プロ1年目から41試合に出場。オフには1979年の移籍以来、二塁手としてチームの顔だった山崎裕之が引退。二塁の定位置が空くことになる。翌1985年には110試合出場。そのうち90試合で二塁手を務め、初めて優勝を味わう。
さらに1986年には全試合二塁手として出場。前年阪神タイガースに苦杯を舐めた日本シリーズでは、広島東洋カープを破り、自身初の日本一の喜びに浸る。
1987年はオープン戦で死球を受け、指を骨折。一軍への合流はオールスター戦も終わった7月下旬と大きく出遅れた。しかし、読売ジャイアンツとの対戦となった日本シリーズでは、巨人のセンター・クロマティの緩慢な守備の隙を突き、1塁からシングルヒットで本塁に生還する離れ業をやってのけ、一躍その名を全国区に知らしめる。
守備と走塁のイメージしかなかった辻だが、打撃も開眼し、1989年には初めて打率3割をマーク。1990年には衰えが見え始めた石毛宏典に代わり、シーズンの大半の試合で1番バッターを任される。再び巨人と相まみえた日本シリーズでは4戦すべて1打席目に出塁。3戦目まではすべて先制のホームを踏み、4連勝の原動力となり、優秀選手に輝いた。
1993年は腰痛で欠場することもたびたびだったが、その腰痛をカバーするために調整した打撃フォームが実を結び、0.319で初の首位打者を獲得した。
しかし、1995年に打率0.238と大きく数字を落とすと、当時の東尾修監督およびチーム上層部から引退→コーチ就任を要請される。
当時37歳になったばかりでまだ十分現役でやれると感じていた辻は、自由契約を申し出て、ヤクルトスワローズに移籍する。
迎えた1996年、オープン戦に負ったケガの影響で開幕こそ二軍で過ごすが5月に一軍に合流すると、ヒットを打ちまくり6月上旬には規定打席不足ながら4割を超える打率をマークした。シーズン終了後には0.333まで落とし、打率ランキングはアロンゾ・パウエルに続く2位でセパ両リーグでの首位打者とはならなかったが見事復活を遂げた。
翌1997年も序盤は打棒が好調で、首位打者争いを繰り広げる時期もあったが、体力の低下などで徐々に数字を落とし、後半は代打として出場することが多くなった。
41歳となる1999年はケガが続いて、ルーキーの年を下回る17試合の出場にとどまったことから現役を引退。
その後は、ヤクルト、横浜、WBC日本代表、中日ドラゴンズでコーチを務めている。
卒業後は社会人の日本通運浦和に所属。最初はレベルの違いを感じていたが、4年、5年と続けていくうちに徐々に力をつけていき、4番打者を打つようになった。ちなみに当時の守備位置は三塁。二塁を守るようになったのはプロに入ってからだった。
1983年秋のドラフト会議で、西武ライオンズが2位という上位で指名した。
当時の監督は昭和の名遊撃手とうたわれた広岡達朗。広岡直々のノックで鍛えられた辻は、人並み外れた練習量とセンスの良さでそれに応え、プロ1年目から41試合に出場。オフには1979年の移籍以来、二塁手としてチームの顔だった山崎裕之が引退。二塁の定位置が空くことになる。翌1985年には110試合出場。そのうち90試合で二塁手を務め、初めて優勝を味わう。
さらに1986年には全試合二塁手として出場。前年阪神タイガースに苦杯を舐めた日本シリーズでは、広島東洋カープを破り、自身初の日本一の喜びに浸る。
1987年はオープン戦で死球を受け、指を骨折。一軍への合流はオールスター戦も終わった7月下旬と大きく出遅れた。しかし、読売ジャイアンツとの対戦となった日本シリーズでは、巨人のセンター・クロマティの緩慢な守備の隙を突き、1塁からシングルヒットで本塁に生還する離れ業をやってのけ、一躍その名を全国区に知らしめる。
守備と走塁のイメージしかなかった辻だが、打撃も開眼し、1989年には初めて打率3割をマーク。1990年には衰えが見え始めた石毛宏典に代わり、シーズンの大半の試合で1番バッターを任される。再び巨人と相まみえた日本シリーズでは4戦すべて1打席目に出塁。3戦目まではすべて先制のホームを踏み、4連勝の原動力となり、優秀選手に輝いた。
1993年は腰痛で欠場することもたびたびだったが、その腰痛をカバーするために調整した打撃フォームが実を結び、0.319で初の首位打者を獲得した。
しかし、1995年に打率0.238と大きく数字を落とすと、当時の東尾修監督およびチーム上層部から引退→コーチ就任を要請される。
当時37歳になったばかりでまだ十分現役でやれると感じていた辻は、自由契約を申し出て、ヤクルトスワローズに移籍する。
迎えた1996年、オープン戦に負ったケガの影響で開幕こそ二軍で過ごすが5月に一軍に合流すると、ヒットを打ちまくり6月上旬には規定打席不足ながら4割を超える打率をマークした。シーズン終了後には0.333まで落とし、打率ランキングはアロンゾ・パウエルに続く2位でセパ両リーグでの首位打者とはならなかったが見事復活を遂げた。
翌1997年も序盤は打棒が好調で、首位打者争いを繰り広げる時期もあったが、体力の低下などで徐々に数字を落とし、後半は代打として出場することが多くなった。
41歳となる1999年はケガが続いて、ルーキーの年を下回る17試合の出場にとどまったことから現役を引退。
その後は、ヤクルト、横浜、WBC日本代表、中日ドラゴンズでコーチを務めている。
地味な存在だった辻を一躍有名にした日本シリーズでの伝説の好走塁
1987年日本シリーズ清原と辻の好走塁 - YouTube
ホームインした瞬間に両手を高く挙げて、子どものように喜ぶ辻の様子は、相手の隙を突く緻密な西武ライオンズの野球とは真逆な純粋に野球を楽しむ少年のようだった。
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1987年の日本シリーズ。西武ライオンズは3勝2敗と王手をかけて11月1日の本拠地・西武球場での第6戦に挑んでいた。
この年から、西武ライオンズの守備走塁コーチに就任し、三塁ベースコーチに伊原春樹は、スコアラーによる事前情報収集、ビデオによる研究からセンターのクロマティの守備、特に送球に難があることを見抜き、隙があれば一つでも先の塁を奪うことを狙っていた。
そして、それは事前のミーティングでも選手に伝えられており、各選手の意識は高まっていた。この勝てば日本一が決定するという大勝負で、そのシーンが飛び出すのである。
伏線は2回の裏にあった。1死二塁の先制のチャンスで、6番・ブコビッチはセンター左寄りに大きなフライを打ち上げる。クロマティは背走しながらなんとかキャッチ。実況アナウンサーも「いいプレイです」と好捕であることを伝えていた。
しかし、このとき二塁走者の清原が当然のようにタッチアップするにも関わらず、カットマンの遊撃手・川相を大きく飛び越える不正確な送球を投じる。こうなることを予測していた伊原は、迷うことなく右腕を回し、清原に本塁突入を指示。ところが、事前ミーティングの意識が足りなかったのか、ここで本塁突入はないだろうという固定概念が邪魔したのか、三塁を大きく回ったところで、清原が一瞬足を止めてしまう。
ここでまたしてもジャイアンツの守備陣にミスが出る。クロマティからの送球を受け取った二塁手・篠塚が、清原が本塁に突入したことに気づいて本塁への送球を指示している三塁手の原に送球してしまうのだ。さらに受け取った原すらもガラ空きの三塁にベースタッチをするタイムロス。結果、一かバチかで突っ込んだ清原の本塁生還を許す。
試合は進んで8回裏。2対1で西武が依然リードしているが、ジャイアンツは7回に原の本塁打で1点差に迫る。
ここで二死ランナーなしで打席には辻。辻はこの年、リリーフエースとして獅子奮迅の活躍を見せた鹿取義隆を相手に、フルカウントから三遊間を破るヒットを放つ。
次打者は3番・秋山幸二。秋山は1ストライクから鹿取の真ん中のボールを叩くと、センター前へクリーンヒット。二死ということもあり、辻はバットとボールが当たった瞬間に好スタートを切り、センターのクロマティがボールを掴むときにはすでに三塁に到達しようとしていた。
ここで三塁での封殺は無理と判断したクロマティは、一瞬どこにボールを返すか判断が鈍る。結果、遊撃手の川相に返球するのだが、川相は打者走者の秋山が二塁に進むのを阻止しようと二塁に意識を向ける。伊原はその瞬間を見逃さなかった。そして辻は伊原の指示に全面的に従った。ミーティングでの意識付けが大きかったのだろう。まるで打った瞬間にホームまで返ってやろうという気持ちすら感じられるすさまじい走塁だった。
川相からの送球を受けた捕手の山倉がタッチすらできないほど、辻は余裕のホームイン。スコアは3対1となり、残りは9回の表のジャイアンツの攻撃を残すのみ。
土壇場でこの圧倒的なプレーを見せつけられては、この瞬間に敗北を確信したジャイアンツファンも少なくなかっただろう。
このプレーで辻は一気に全国区のプレイヤーとなった。そして同時にサードベースコーチャーの重要性も高まったのだ。
この年から、西武ライオンズの守備走塁コーチに就任し、三塁ベースコーチに伊原春樹は、スコアラーによる事前情報収集、ビデオによる研究からセンターのクロマティの守備、特に送球に難があることを見抜き、隙があれば一つでも先の塁を奪うことを狙っていた。
そして、それは事前のミーティングでも選手に伝えられており、各選手の意識は高まっていた。この勝てば日本一が決定するという大勝負で、そのシーンが飛び出すのである。
伏線は2回の裏にあった。1死二塁の先制のチャンスで、6番・ブコビッチはセンター左寄りに大きなフライを打ち上げる。クロマティは背走しながらなんとかキャッチ。実況アナウンサーも「いいプレイです」と好捕であることを伝えていた。
しかし、このとき二塁走者の清原が当然のようにタッチアップするにも関わらず、カットマンの遊撃手・川相を大きく飛び越える不正確な送球を投じる。こうなることを予測していた伊原は、迷うことなく右腕を回し、清原に本塁突入を指示。ところが、事前ミーティングの意識が足りなかったのか、ここで本塁突入はないだろうという固定概念が邪魔したのか、三塁を大きく回ったところで、清原が一瞬足を止めてしまう。
ここでまたしてもジャイアンツの守備陣にミスが出る。クロマティからの送球を受け取った二塁手・篠塚が、清原が本塁に突入したことに気づいて本塁への送球を指示している三塁手の原に送球してしまうのだ。さらに受け取った原すらもガラ空きの三塁にベースタッチをするタイムロス。結果、一かバチかで突っ込んだ清原の本塁生還を許す。
試合は進んで8回裏。2対1で西武が依然リードしているが、ジャイアンツは7回に原の本塁打で1点差に迫る。
ここで二死ランナーなしで打席には辻。辻はこの年、リリーフエースとして獅子奮迅の活躍を見せた鹿取義隆を相手に、フルカウントから三遊間を破るヒットを放つ。
次打者は3番・秋山幸二。秋山は1ストライクから鹿取の真ん中のボールを叩くと、センター前へクリーンヒット。二死ということもあり、辻はバットとボールが当たった瞬間に好スタートを切り、センターのクロマティがボールを掴むときにはすでに三塁に到達しようとしていた。
ここで三塁での封殺は無理と判断したクロマティは、一瞬どこにボールを返すか判断が鈍る。結果、遊撃手の川相に返球するのだが、川相は打者走者の秋山が二塁に進むのを阻止しようと二塁に意識を向ける。伊原はその瞬間を見逃さなかった。そして辻は伊原の指示に全面的に従った。ミーティングでの意識付けが大きかったのだろう。まるで打った瞬間にホームまで返ってやろうという気持ちすら感じられるすさまじい走塁だった。
川相からの送球を受けた捕手の山倉がタッチすらできないほど、辻は余裕のホームイン。スコアは3対1となり、残りは9回の表のジャイアンツの攻撃を残すのみ。
土壇場でこの圧倒的なプレーを見せつけられては、この瞬間に敗北を確信したジャイアンツファンも少なくなかっただろう。
このプレーで辻は一気に全国区のプレイヤーとなった。そして同時にサードベースコーチャーの重要性も高まったのだ。
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実はバントが下手だった!?流し打ちを極めた理由とは?
若手時代は長打力がなかったことから2番を打つことも多かった辻だが、実はバントはあまり上手ではなかった。
1985年、阪神との日本シリーズ第2戦。1対2で負けている7回裏の一死一、三塁。当時清原が入団する前で得点力に乏しかった西武は、阪神の一塁手ランディ・バースの守備を崩そうと奇策を繰り出す。
打者の辻が、投手がセットに入る前からバントの構えをして、一塁前にバントを転がすと、打球を見てから三塁ランナーの秋山がスタート。いわゆるセーフティースクイズである。
辻のバントを素手で処理したバースは、すぐさま捕手の木戸へ送球。しかし、ボールはワンバウンドし、捕手のタッチがやや遅れ、その間に秋山が回り込んでホームインしたかに見えたが、アンパイアの判定はアウト。貴重な同点のチャンスを生かすことができなかった。
辻は「フライになることを恐れてしまった。バースの横を抜けるくらい、もっと強い打球を転がすべきだった」と回顧している。
このようにバントが苦手だった辻は、右打ちの技術をひたすら磨いた。インコースでもアウトコースでもどんな球でも右に転がし、ランナーを進める技術をマスターしたのだ。
1985年、阪神との日本シリーズ第2戦。1対2で負けている7回裏の一死一、三塁。当時清原が入団する前で得点力に乏しかった西武は、阪神の一塁手ランディ・バースの守備を崩そうと奇策を繰り出す。
打者の辻が、投手がセットに入る前からバントの構えをして、一塁前にバントを転がすと、打球を見てから三塁ランナーの秋山がスタート。いわゆるセーフティースクイズである。
辻のバントを素手で処理したバースは、すぐさま捕手の木戸へ送球。しかし、ボールはワンバウンドし、捕手のタッチがやや遅れ、その間に秋山が回り込んでホームインしたかに見えたが、アンパイアの判定はアウト。貴重な同点のチャンスを生かすことができなかった。
辻は「フライになることを恐れてしまった。バースの横を抜けるくらい、もっと強い打球を転がすべきだった」と回顧している。
このようにバントが苦手だった辻は、右打ちの技術をひたすら磨いた。インコースでもアウトコースでもどんな球でも右に転がし、ランナーを進める技術をマスターしたのだ。
1985年 日本シリーズ 西武-阪神 第二戦ダイジェスト - YouTube
1985年の日本シリーズ第2戦。辻が悔やんだセーフティースクイズは11:45ころ。
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日本一を引き寄せた大バクチのファインプレー
1992年、今度はヤクルトとの日本シリーズ。3勝3敗で迎えた第7戦。
1対1の同点で、7回裏に西武は先発の石井丈裕が一死満塁の大ピンチを作ってしまう。
ここでヤクルトはこのシリーズ第1戦で代打満塁サヨナラホームランを放ったベテラン・杉浦亨を投入。杉浦は石井の高めのストレートをフルスイングすると、球の力に押され、バットは真っ二つに折れた。勢いのない打球が前進守備を敷いていたセカンド・辻のわずかに一塁方向に転がっていく。辻は半身の態勢で打球をグラブに納めると、普段はやらないという回転しながらのバックホームを行った。不完全な態勢だったのと、ちょうど捕手・伊東勤との間に、投手の石井がいたこともあり、送球はグランドレベルからは約2.5m、身長180cmを超える伊東がジャンプしないと抑えきれないほど高い送球となった。
しかし、ヤクルトの三塁走者・広沢はスタートが遅れたばかりか、伊東が跳び上がってガラ空きになったホームベースに強硬に突入せず、むしろ伊東がジャンプして飛び降りた瞬間に広沢が足から加速することなくホームに入ってきたため、タッチされに行ったような印象を受ける緩い走塁となった。
結果、ピンチをしのいだ西武。1対1のまま延長に入った10回表。西武は秋山の犠牲フライで勝ち越し。そのまま逃げ切って、辻が入団してから7度目となる日本一を達成するのだ。
辻はこのプレーについて「打者が引っ張りの杉浦ということで自分のところに打球が来る可能性は高いと踏んでいた。打球が来たら何が何でもホームはアウトにするという気持ちだった。その気持ちがなければアウトにできなかった」と述懐している。
1対1の同点で、7回裏に西武は先発の石井丈裕が一死満塁の大ピンチを作ってしまう。
ここでヤクルトはこのシリーズ第1戦で代打満塁サヨナラホームランを放ったベテラン・杉浦亨を投入。杉浦は石井の高めのストレートをフルスイングすると、球の力に押され、バットは真っ二つに折れた。勢いのない打球が前進守備を敷いていたセカンド・辻のわずかに一塁方向に転がっていく。辻は半身の態勢で打球をグラブに納めると、普段はやらないという回転しながらのバックホームを行った。不完全な態勢だったのと、ちょうど捕手・伊東勤との間に、投手の石井がいたこともあり、送球はグランドレベルからは約2.5m、身長180cmを超える伊東がジャンプしないと抑えきれないほど高い送球となった。
しかし、ヤクルトの三塁走者・広沢はスタートが遅れたばかりか、伊東が跳び上がってガラ空きになったホームベースに強硬に突入せず、むしろ伊東がジャンプして飛び降りた瞬間に広沢が足から加速することなくホームに入ってきたため、タッチされに行ったような印象を受ける緩い走塁となった。
結果、ピンチをしのいだ西武。1対1のまま延長に入った10回表。西武は秋山の犠牲フライで勝ち越し。そのまま逃げ切って、辻が入団してから7度目となる日本一を達成するのだ。
辻はこのプレーについて「打者が引っ張りの杉浦ということで自分のところに打球が来る可能性は高いと踏んでいた。打球が来たら何が何でもホームはアウトにするという気持ちだった。その気持ちがなければアウトにできなかった」と述懐している。
'92日本一の鍵を握った男たち 2/2 - YouTube
7回裏のシーンを辻自身が振り返るのは興味深い。
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辻が師事した5人の名将
辻のプロ野球人生に大きく影響を与えた5人の名将との出会いを振り返ってみる。
「根本陸夫」
根本は辻が入団した当時は、すでに西武の監督を退任して管理部長を務めており、辻が直接師事したことはないが、辻をドラフトで指名したのはほかでもない根本だった。
辻は1983年秋のドラフト2位で西武に指名されたが、当時中央球界ではまったくの無名の存在で、なおかつ指名当時25歳と年齢だったことから、上位での指名には他球団からは驚きの声が上がった。球界の寝業師との異名を取った根本は、盗塁死の少なかった辻の走塁センスや高い身体能力、そして野球に対する情熱の高さを買って指名したと発言している。
「広岡達朗」
辻が広岡のもとでプレーしたのは1984年から2年間だけだが、入団してすぐにアメリカ・アリゾナ州メサで行われた春季キャンプで厳しいノックを受けるなど、野球選手としての基礎を叩きこまれた。
1995年オフ、辻が西武を自由契約になると当時千葉ロッテマリーンズでGMを務めていた広岡からヤクルトより好条件で誘いがあった。結果、先に声をかけたヤクルトに辻は移籍することになるが、両者の子弟関係を占めるエピソードだ。
「森祇晶」
1986年、広岡に代わって西武の監督に就任。在任9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一に輝いた名将中の名将だ。前述の1987年の巨人との日本シリーズでの好走塁も、「MCIA」とまで揶揄された森の相手を徹底的に研究する姿勢が生んだと言える。
また、辻は著書「プロ野球 勝つための頭脳プレー」で、エラーをして落ち込んでいるなか、深夜に森から辻の気持ちを気遣う電話をもらった経験があると書いている。
「野村克也」
1996年に、西武を自由契約になった後ヤクルトに移籍。ヤクルトではかつて日本シリーズで覇権を争った野村克也に師事することとなった。
野村はもともと辻の野球センスを高く評価しており、渡りに船の移籍話だった。「もし自分の後任監督を選ぶとしたら?」という問いに「辻なんかいいんじゃないか」と答えている。
監督としての野村は「野村再生工場」と称され、吉井理人・小早川毅彦・田畑一也など枚挙にいとまがないほど、他球団では不振に陥っていたり、能力を発揮できていない選手を次々に活躍させた。辻も同様で38歳にして打率3割をマーク。西武を自由契約になってから4年現役を続けることができた。
「落合博満」
辻は2007年~2009年まで中日ドラゴンズの二軍監督、2010~2011年までは一軍総合コーチとして落合博満監督のもと、指導を行った。
著書「プロ野球 勝ち続ける意識改革」では、北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズ第5戦で、完全試合を目前にしながらマウンドをリリーフエースの岩瀬仁紀に譲った山井大介投手の交代劇について、当時二軍監督として見た立場から触れている。
2011年シーズンを最後に落合が監督から退くと、辻も契約満了ということで中日を退団。しかし、落合がGMとして中日に復帰した2014年シーズンには辻もコーチとして復帰。
「根本陸夫」
根本は辻が入団した当時は、すでに西武の監督を退任して管理部長を務めており、辻が直接師事したことはないが、辻をドラフトで指名したのはほかでもない根本だった。
辻は1983年秋のドラフト2位で西武に指名されたが、当時中央球界ではまったくの無名の存在で、なおかつ指名当時25歳と年齢だったことから、上位での指名には他球団からは驚きの声が上がった。球界の寝業師との異名を取った根本は、盗塁死の少なかった辻の走塁センスや高い身体能力、そして野球に対する情熱の高さを買って指名したと発言している。
「広岡達朗」
辻が広岡のもとでプレーしたのは1984年から2年間だけだが、入団してすぐにアメリカ・アリゾナ州メサで行われた春季キャンプで厳しいノックを受けるなど、野球選手としての基礎を叩きこまれた。
1995年オフ、辻が西武を自由契約になると当時千葉ロッテマリーンズでGMを務めていた広岡からヤクルトより好条件で誘いがあった。結果、先に声をかけたヤクルトに辻は移籍することになるが、両者の子弟関係を占めるエピソードだ。
「森祇晶」
1986年、広岡に代わって西武の監督に就任。在任9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一に輝いた名将中の名将だ。前述の1987年の巨人との日本シリーズでの好走塁も、「MCIA」とまで揶揄された森の相手を徹底的に研究する姿勢が生んだと言える。
また、辻は著書「プロ野球 勝つための頭脳プレー」で、エラーをして落ち込んでいるなか、深夜に森から辻の気持ちを気遣う電話をもらった経験があると書いている。
「野村克也」
1996年に、西武を自由契約になった後ヤクルトに移籍。ヤクルトではかつて日本シリーズで覇権を争った野村克也に師事することとなった。
野村はもともと辻の野球センスを高く評価しており、渡りに船の移籍話だった。「もし自分の後任監督を選ぶとしたら?」という問いに「辻なんかいいんじゃないか」と答えている。
監督としての野村は「野村再生工場」と称され、吉井理人・小早川毅彦・田畑一也など枚挙にいとまがないほど、他球団では不振に陥っていたり、能力を発揮できていない選手を次々に活躍させた。辻も同様で38歳にして打率3割をマーク。西武を自由契約になってから4年現役を続けることができた。
「落合博満」
辻は2007年~2009年まで中日ドラゴンズの二軍監督、2010~2011年までは一軍総合コーチとして落合博満監督のもと、指導を行った。
著書「プロ野球 勝ち続ける意識改革」では、北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズ第5戦で、完全試合を目前にしながらマウンドをリリーフエースの岩瀬仁紀に譲った山井大介投手の交代劇について、当時二軍監督として見た立場から触れている。
2011年シーズンを最後に落合が監督から退くと、辻も契約満了ということで中日を退団。しかし、落合がGMとして中日に復帰した2014年シーズンには辻もコーチとして復帰。
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広岡、森、野村、落合のもとで学んだ帝王学が凝縮されている。