牛島和彦のプロフィール
高校時代まで
出生地は奈良県北葛城郡河合町。
少年時代に一家で大阪府大東市に引っ越し、高校時代まで過ごす。
四条中学校を経て浪商高校で、ドカベンこと香川伸行とバッテリーを組み、2年春、3年春夏と甲子園出場を果たし、3年春の選抜高校野球で準優勝。
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中日時代
ドラフト1位での中日入団後は、主にリリーフエースとして活躍。
1982年は17セーブでリーグ優勝に貢献。1984年は29セーブを挙げ、最多セーブを記録。
しかし、先発に転向した1985年は本来の力を発揮できなかった。
1982年は17セーブでリーグ優勝に貢献。1984年は29セーブを挙げ、最多セーブを記録。
しかし、先発に転向した1985年は本来の力を発揮できなかった。
ロッテ時代
移籍初年の1987年は2勝24セーブを記録し、最優秀救援投手のタイトルを獲得、1988年は25セーブを記録し、最多セーブ投手となる。
1989年は先発に転向し、自己最高の12勝を挙げる。
しかし、1990年には長年の酷使により右肩がパンクし、ほぼ1シーズンをリハビリに費やす。同年と翌1991年は未勝利に終わった。
1992年には3年ぶりとなる勝ち星(3勝)を挙げるが、翌1993年に現役引退。14年間のプロ生活を終えた。
揉めに揉めたロッテ移籍
1986年オフ、ロッテオリオンズの主砲落合博満と1対4の大型トレードが発表される。最後まで納得せずに抵抗するが、当時監督に就任した星野仙一が自宅に出向き牛島を説得した。
そして、1987年、落合とのトレードで上川誠二・平沼定晴・桑田茂と共にロッテへ移籍した。
移籍に当たっては星野が「将来中日の指導者として呼び戻す」と述べたが、結局中日復帰は実現せず口約束で終わっており自身も後に他球団へ指導者として移籍している。
星野監督との話し合い
最後に説得に乗り出したのは星野仙一新監督だった。
80年、大阪・浪商高からドラフト1位で入団して以来、弟分として可愛がってきた牛島を諭すようにユニホームを着ている意味、トレードの意味を説いた星野だったが、牛島は首を縦に振らなかった。
それが一転してトレードを了承したのは、25日。言ったとおり2日間で答えを出した。
なぜ星野の前で承諾しなかったのか。
「監督の立場はよく分かった、理解もできた。中日に恨みもない。
むしろ、自分を責めた。中日に必要な選手だったら出されなくてはずなのにと。だからトレードも仕方ない。
でも監督の前ではいそうですか、と返事をしたら僕の値打ちを下げると思った。
記者さんたちにも48時間は決めんと言ったしね。ただそれだけです」。
強気な投球の反面、駆け引きも得意とする牛島らしい人生の選択の答えの出し方だった。
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牛島の名を世間に知らしめた1979年選抜・高校野球
牛島投手は1979年選抜で浪商3-2高知商、準々決勝は浪商4x-3川之江(延13)、準決勝は浪商5-3東洋大姫路、決勝は箕島8-7浪商と4連投しています。
1979年選抜高校野球 浪商~プロ 牛島和彦 - YouTube
体力が尽きるまで投げた1979年の春。
決勝は、疲れのピークだった。
それでも投げ抜いたのはさすが剛腕!
香川とは名コンビであり、ライバルであったと公言している牛島。
ライバルであるが故に、香川のサインに不満があればわざとボール球を投げたそう!
決勝は、疲れのピークだった。
それでも投げ抜いたのはさすが剛腕!
香川とは名コンビであり、ライバルであったと公言している牛島。
ライバルであるが故に、香川のサインに不満があればわざとボール球を投げたそう!
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逆転に次ぐ逆転の決勝
初回、浪商・香川の中前打で先制されると、その裏、箕島も二死から3連打で同点とし、3回に北野の三塁打で2点を勝ち越し。3点リードで迎えた6回、浪商・森川の適時打などで同点に追いつかれるが、その裏、箕島は島田の左翼線タイムリーで5対4とふたたび勝ち越す。
7回、浪商・山本、香川の連打で5対6と再逆転を許すと、その裏、箕島に北野の同点本塁打が飛び出し、さらに三塁打とスクイズで7対6と再々逆転。
8回、敬遠の指示が出ていた箕島・北野が右中間に二塁打を放ち2点リード。
最終回、浪商・牛島の左翼線二塁打で1点差とされるが、石井が後続を断ち8対7で乱打線を制して、箕島は2年ぶり3回目の選抜優勝。