第5位 明徳義塾・馬淵史郎監督 「通算45勝」
まぶち しろう。
1955年11月28日生まれ。愛媛県八幡浜市出身。
愛媛県立三瓶高等学校、拓殖大学卒業。
選手時代は内野手として活躍するも、甲子園出場経験はなし。
大学卒業後、社会人野球の阿部企業(兵庫)でコーチ、監督を務め、1986年に社会人野球日本選手権大会で準優勝に導いた。
1987年、高知・明徳義塾高等学校硬式野球部のコーチとなり、1990年から監督に就任した。
1955年11月28日生まれ。愛媛県八幡浜市出身。
愛媛県立三瓶高等学校、拓殖大学卒業。
選手時代は内野手として活躍するも、甲子園出場経験はなし。
大学卒業後、社会人野球の阿部企業(兵庫)でコーチ、監督を務め、1986年に社会人野球日本選手権大会で準優勝に導いた。
1987年、高知・明徳義塾高等学校硬式野球部のコーチとなり、1990年から監督に就任した。
via ameblo.jp
【通算出場】 26回
【通算勝利】 45勝25敗
【優勝回数】 1回
【春・成績】 出場 11回、18勝11敗 、ベスト8は1回、ベスト4は5回
【夏・成績】 出場 15回、27勝14敗、ベスト8は1回、ベスト4は2回、優勝は1回
※数字は2015年8月現在のもの。誤差等ある場合もございます。
【通算勝利】 45勝25敗
【優勝回数】 1回
【春・成績】 出場 11回、18勝11敗 、ベスト8は1回、ベスト4は5回
【夏・成績】 出場 15回、27勝14敗、ベスト8は1回、ベスト4は2回、優勝は1回
※数字は2015年8月現在のもの。誤差等ある場合もございます。
≪馬淵史郎監督の特徴≫
「守り勝つ野球」を基にまず「投手力」「守備力」「走力」レベルの高いチーム作りをする。攻撃面では「強力打線」のイメージがあるが、犠打、機動力を絡めた攻撃もよく行う。新聞・雑誌面等で『策士』と評されることも多い。
長年の経験を生かし『確率』や『試合の流れ』を重視する。あらゆる場面・状況下で選手の実力や点差、相手選手、監督の心理等も考慮した上で采配を執る。
明徳義塾と言えば、初戦に強いイメージだろう。
初戦20連勝を記録した(2011年の春選抜の初戦敗退で記録はストップ)。
特に夏は強く、1984年の出場以来、2015年に負けるまで16連勝した。
長年の経験を生かし『確率』や『試合の流れ』を重視する。あらゆる場面・状況下で選手の実力や点差、相手選手、監督の心理等も考慮した上で采配を執る。
明徳義塾と言えば、初戦に強いイメージだろう。
初戦20連勝を記録した(2011年の春選抜の初戦敗退で記録はストップ)。
特に夏は強く、1984年の出場以来、2015年に負けるまで16連勝した。
via rank.cd-cdn.com
≪松井秀喜 5打席連続敬遠≫
1992年8月16日に阪神甲子園球場で行われた第74回全国高等学校野球選手権大会2回戦の明徳義塾高校(高知)対星稜高校(石川)戦において、明徳義塾が、星稜の4番打者・松井秀喜を5打席連続して敬遠する作戦を敢行し、この試合で松井が一度もバットを振ることないまま星稜が敗退した出来事である。
試合途中から場内は騒然とし、明徳義塾が勝利した後も騒ぎは収まらずに大手マスコミなどでも取りあげられる事件となった。
この連続敬遠をきっかけに明徳義塾高校に「ヒール」のイメージがつきまとっただけでなく、高校野球における敬遠ないし「勝利至上主義」についての議論が湧き起こった。
1992年夏、物議を醸した『松井秀喜』甲子園で5打席連続敬遠 - Middle Edge(ミドルエッジ)
敬遠された松井秀喜、敬遠した明徳の河野投手、そして松井の後ろを打っていた星稜5番打者の月岩。それぞれのインタビューを当時の動画と共に紹介する。
第3位(同数の為) 帝京・前田三夫監督 「通算51勝」
まえだみつお。1949年6月6日生まれ。千葉県袖ケ浦市出身。
木更津中央高等学校(現・木更津総合高等学校)、帝京大学卒。
高校時代は三塁手として活躍するも、甲子園の出場経験はなし。大学時代は4年の秋に三塁ベースコーチとしてグラウンドに立っただけで選手としては公式戦出場なし。
練習を手伝っていた縁で、帝京大学卒業と同時に帝京高校野球部監督に就任。
木更津中央高等学校(現・木更津総合高等学校)、帝京大学卒。
高校時代は三塁手として活躍するも、甲子園の出場経験はなし。大学時代は4年の秋に三塁ベースコーチとしてグラウンドに立っただけで選手としては公式戦出場なし。
練習を手伝っていた縁で、帝京大学卒業と同時に帝京高校野球部監督に就任。
【通算出場】 26回
【通算勝利】 51勝23敗
【優勝回数】 3回
【春・成績】 出場 14回、21勝13敗 、ベスト8は1回、ベスト4は1回 、準優勝は2回、優勝は1回
【夏・成績】 出場 12回、30勝10敗、ベスト8は4回、ベスト4は2回、優勝は2回
※数字は2015年8月現在のもの。誤差等ある場合もございます。
【通算勝利】 51勝23敗
【優勝回数】 3回
【春・成績】 出場 14回、21勝13敗 、ベスト8は1回、ベスト4は1回 、準優勝は2回、優勝は1回
【夏・成績】 出場 12回、30勝10敗、ベスト8は4回、ベスト4は2回、優勝は2回
※数字は2015年8月現在のもの。誤差等ある場合もございます。
≪前田三夫監督の特徴≫
投手作りが上手いためエースと呼ばれる右の本格派は、ほとんどが140キロを超える速球を投げる。
継投も上甲正典監督や木内幸男監督のように何人も同じ投手を送り込んだりする突発的なものではなく、大体決まったパターンで継投することが多い。
また、指導の特徴として、選手の体づくりと右の本格派投手の育成が挙げられる。
「体づくりをするには筋トレだけではダメ。食べることが大事」が持論であり、昼食に米3合を食べる「三合飯(めし)」を選手に課している。
継投も上甲正典監督や木内幸男監督のように何人も同じ投手を送り込んだりする突発的なものではなく、大体決まったパターンで継投することが多い。
また、指導の特徴として、選手の体づくりと右の本格派投手の育成が挙げられる。
「体づくりをするには筋トレだけではダメ。食べることが大事」が持論であり、昼食に米3合を食べる「三合飯(めし)」を選手に課している。
via www.zakzak.co.jp
≪池田高校・池田高校を師と仰ぐ≫
72年、前田が監督に就任時、帝京高野球部は部員数は4人だった。
前田は「お前たちを甲子園に連れて行く!」と大見得を切り、選手たちをスパルタ方式で鍛え上げた。
その後、1978年春の選抜高校野球で甲子園初出場を果たし、1980年春は伊東昭光投手を擁し準優勝。1989年の夏に全国制覇を果たした。
池田高校を全国制覇に導いた先述の蔦監督を師と仰いでおり、インタビューで共演したときには「蔦監督には隙がない」と語っている。
前田は1983年センバツでその蔦文也監督率いる池田高に大敗した。
西の横綱相手にも、引けを取らない打線を自負していた前田は、自信をもって試合に臨んだが、結果は0-11の大敗だった。
その際に「蔦さんを見て、世の中にこんなすごい監督がいるんだな。これじゃぁ、自分が勝てるわけがない。優勝なんてできっこない。監督のパワー、そして監督としての器が違う」。
選手には、池田の練習方法に倣って筋トレや水泳トレーニングを課す一方、前田は自身にも試練を課した。それまで帝京高の事務局員として監督を続けていたが、社会科の教員として教壇に立つ決意をした。
前田は「お前たちを甲子園に連れて行く!」と大見得を切り、選手たちをスパルタ方式で鍛え上げた。
その後、1978年春の選抜高校野球で甲子園初出場を果たし、1980年春は伊東昭光投手を擁し準優勝。1989年の夏に全国制覇を果たした。
池田高校を全国制覇に導いた先述の蔦監督を師と仰いでおり、インタビューで共演したときには「蔦監督には隙がない」と語っている。
前田は1983年センバツでその蔦文也監督率いる池田高に大敗した。
西の横綱相手にも、引けを取らない打線を自負していた前田は、自信をもって試合に臨んだが、結果は0-11の大敗だった。
その際に「蔦さんを見て、世の中にこんなすごい監督がいるんだな。これじゃぁ、自分が勝てるわけがない。優勝なんてできっこない。監督のパワー、そして監督としての器が違う」。
選手には、池田の練習方法に倣って筋トレや水泳トレーニングを課す一方、前田は自身にも試練を課した。それまで帝京高の事務局員として監督を続けていたが、社会科の教員として教壇に立つ決意をした。