19年ぶりに日本人横綱が誕生するかも!?…そんな報道を見ながら。
現在の大相撲の姿はいつからのものかご存知でしょうか?
単純にいうと、江戸時代の「勧進相撲」が今の相撲の原型です。寺社修理のための資金集めのために相撲を行った「勧進相撲」が、職業としての力士・大相撲の原型となりました。
日本相撲協会様のサイトによると1500年以上続くという「相撲」。昔はどんなものだったのか?というコネタです。
現在の大相撲の姿はいつからのものかご存知でしょうか?
単純にいうと、江戸時代の「勧進相撲」が今の相撲の原型です。寺社修理のための資金集めのために相撲を行った「勧進相撲」が、職業としての力士・大相撲の原型となりました。
日本相撲協会様のサイトによると1500年以上続くという「相撲」。昔はどんなものだったのか?というコネタです。
1500年以上続くという「相撲」、その原型は?
相撲の起源は古事記や日本書記、万葉集や続日本紀など様々な文献からうかがえます。
古事記では建御雷神(たけみかづち)の葦原中国平定の際、出雲の建御名方神(たけみなかた)が力競べというか取っ組み合いをしている記述があります。これをルーツの1つに取り上げることも多いです。
古事記では建御雷神(たけみかづち)の葦原中国平定の際、出雲の建御名方神(たけみなかた)が力競べというか取っ組み合いをしている記述があります。これをルーツの1つに取り上げることも多いです。
しかし、一番有力なルーツはこちら。
日本書記に、第11代垂仁天皇の垂仁7年7月7日(紀元前23年)、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(当麻蹴速・たいまのけはや)という2人男性が「捔力」(すまい・スマヰ」)での戦いをしたとあり、これをルーツとすることが多いです。
「当麻蹴速と野見宿禰とに捔力せしむ。二人相対ひ立ち、各足を挙げ相蹴う。則ち当麻蹴速が脇骨を蹴ゑ折り、亦其の腰を踏み折りて殺す」と記されていますので、こりゃあ…試合ではなく、本気の命のやりとりですね(汗)
この2人、とくに勝者の野見宿禰が相撲の祖として有名です。
現在でも、大相撲に際しては、相撲関係者が野見宿禰神社(墨田区)に参拝されています。
日本書記に、第11代垂仁天皇の垂仁7年7月7日(紀元前23年)、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(当麻蹴速・たいまのけはや)という2人男性が「捔力」(すまい・スマヰ」)での戦いをしたとあり、これをルーツとすることが多いです。
「当麻蹴速と野見宿禰とに捔力せしむ。二人相対ひ立ち、各足を挙げ相蹴う。則ち当麻蹴速が脇骨を蹴ゑ折り、亦其の腰を踏み折りて殺す」と記されていますので、こりゃあ…試合ではなく、本気の命のやりとりですね(汗)
この2人、とくに勝者の野見宿禰が相撲の祖として有名です。
現在でも、大相撲に際しては、相撲関係者が野見宿禰神社(墨田区)に参拝されています。
本気の戦いから宮廷での大会に
この相撲が、本気の戦いから宮廷での大会に変化を遂げていくのです。
『続日本紀』の神亀5年(728年)4月25日 に、諸国の国司や郡司が相撲人を王族や貴族に献上してしまい、朝廷に貢進しないことを諫める詔が出ていますので、この頃の各貴族が相撲人を保持し、力自慢をしていたことがうかがえます。
『続日本紀』では、天平6年(734年)7月7日に聖武天皇が「相撲戯」を観覧した、とあり、これが、7月7日の節日に相撲が行われた明確な最初の記録です。
『続日本紀』の神亀5年(728年)4月25日 に、諸国の国司や郡司が相撲人を王族や貴族に献上してしまい、朝廷に貢進しないことを諫める詔が出ていますので、この頃の各貴族が相撲人を保持し、力自慢をしていたことがうかがえます。
『続日本紀』では、天平6年(734年)7月7日に聖武天皇が「相撲戯」を観覧した、とあり、これが、7月7日の節日に相撲が行われた明確な最初の記録です。
平安時代に始まった「相撲節会(すまひのせちえ)」
平安時代には宮廷では各地から相撲人を選出して大会が開かれるようになりました。天皇御覧の元に相撲を行ったことから「相撲節会(すまひのせちえ)」と呼ばれます。当初はルーツとなった逸話にちなみ、7月7日に催していたのですが、弘仁15年(824)7月7日に平城天皇が崩御したため、命日と重なることから7月16日に変更。その後、開催日は7月下旬が慣例となったのですが承安4年(1174)以降は行われなくなり、宮廷行事としての相撲は姿を消します。
古代行事の再現 「相撲節会」(1)
via www.youtube.com
ちなみに、平安時代に成立した日本最古の百科事典『倭名類聚鈔』にも相撲に関連しそうな記述があります。ここでは「須末比(すまひ)」のほかに「古布志宇知(こぶしうち)」が出ております。相撲と拳討ち。闘う平安人が目に浮かびそうです。
相撲節会の流れをくむ現代の相撲の原型「ネッテイ相撲」
相撲節会には、五穀豊穣の祈願と作柄を占う、神事の意味も
ところで、そんな平安時代の相撲節会には、五穀豊穣の祈願と作柄を占う、神事の意味も込められていたようで、当時の相撲の様子を伝える祭礼が兵庫県に残っています。
養父でネッテイ相撲
via www.youtube.com
兵庫県養父市・水谷神社で10月に行われる「ネッテイ相撲」です。こちら、力士ではなく「頭人(とうにん)」が2人登場しますが、マワシ姿ではありません。上半身は裸ですが下半身は袴をたくし上げただけ。で、庭で両者が向かい合い、足踏みを繰り返し、拳を突き出し、両手を突き出し、最後に両手で相手の方を抱いて左に一回りし、両手を腰に当てて左右に一礼して終了。試合ではなく儀式です。悪霊鎮めの祈願と作物の実りを感謝して行われる行事です。
平安時代に宮中で行なわれた相撲節会の流れをくむ現代の相撲の原型、と言われていますので、平安時代の相撲をご覧になりたい方にはオススメです。今の大相撲と全然違いますよ♪
平安時代に宮中で行なわれた相撲節会の流れをくむ現代の相撲の原型、と言われていますので、平安時代の相撲をご覧になりたい方にはオススメです。今の大相撲と全然違いますよ♪
野見宿禰は「埴輪の祖」
追加のコネタ。
この野見宿禰は、葬儀での殉死を取りやめ、代わりに埴輪を置くことを提案した人とされています。事実かどうかは別として、「埴輪の祖」ともいえる存在としても歴史に名を残しています。
そう!相撲と埴輪は、実は祖先が同じなんですよーーーー!
この野見宿禰は、葬儀での殉死を取りやめ、代わりに埴輪を置くことを提案した人とされています。事実かどうかは別として、「埴輪の祖」ともいえる存在としても歴史に名を残しています。
そう!相撲と埴輪は、実は祖先が同じなんですよーーーー!
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『古事記』では「建御名方神(たけみなかたのかみ)」、他文献では「南方刀美神(みなかたとみのかみ)」・「御名方富命」・「建御名方富命」等とも表記される。『日本書紀』に記載はない。