山下泰裕 ippon! 最強最高の柔道家 
2016年11月25日 更新

山下泰裕 ippon! 最強最高の柔道家 

全日本選手権9連覇、世界選手権3連覇、528勝16敗15分、203連勝、外国人選手には1度も負けなかった。

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中学全勝

 (1662513)

山下泰裕は
中1で
初段となり黒帯となった
中2のとき
東京の講道館で行われた全国中学校柔道大会で6試合連続1本勝ち
中3のときは
5試合連続1本勝ち
中学では74戦全勝だった
藤園中学も全国大会を3連覇した
山下は
ある試合で
会場に行くまでにコーラやジュースを10本を飲み
昼は2段重ねの折り詰め弁当を2つ
試合の終わった直後、コーラのホームサイズを6本
夜はカツ丼3杯をたいらげた

負けて転校

 (1662540)

山下康裕は熊本市の九州学院高校に進学した
白石礼介が同校の監督をなったからだ
そして
「高1でインターハイ(全国高校総合体育大会)優勝
高3で全日本選手権出場」
を目標に練習に励んだ
しかし高1の金鷲旗高校柔道大会の準決勝で
吉岡剛選手(福岡県)に判定で敗れた
(中学以来全勝の記録がストップ)
白石は血相を変えて試合場に上がり主審に食ってかかって猛抗議、
さらに審判長にも悔し涙を浮かべながら抗議を続けた
そして1週間後のインターハイでは吉岡剛に勝ち優勝した
(史上初の1年生チャンピオン)
高2のインターハイでは準決勝で松井勲(岐阜県)に負けた
練習相手の不足が原因と思われた
「松井に負けてどうするか
熊本におったっちゃこれ以上伸びんぞ
思い切って中央へ出て柔道ば勉強せんかい」
祖父の言葉が心を大きく揺さぶった
師、白石先生への思いと
強くなりたいという気持ちが入り混じり悩み苦しんだ
そして東海大付属相模高校(神奈川県相模原市)への転校を決めた
転校を決意してから白石先生や部員と顔を合わせるのがつらかった
山下が高2のこの年、
九州学院高校は
金鷲旗大会で前年に苦杯をなめさせられたライバル嘉穂高校に雪辱し初優勝を遂げ
残る1年半、全国大会優勝に向けて燃えていた
また精力を注ぎ込み手塩に掛けて育てた弟子を
悲願までもう少しのところで手放さなければならない師の無念さはいかばかりか
「キチンとあいさつしなければ・・・」
そう思いながらも足は重かった
同級生の父親に声を掛けてもらってやっと山下泰裕は道場に向かった
うつむき加減に戸を開けると道場には重苦しい空気が漂っていた
他の部員たちも気まずそうに下を向いていた
「よう来たな」
「先生」
「わかった
もう何もいうな
これで俺とお前の縁が切れずに済んだ
よう来てくれた」
そして涙ぐみながら白石はいった
「泰裕は今日をもって九学から東海大相模へ行くわけだが
よかか
これは転校じゃなかぞ
いろんな人がいろいろいうが
泰裕は転校じゃなくて一足早う卒業していくとだけん
みんなで気持ちんよう送り出してやろうじゃなかか」
みんな涙でくしゃくしゃになった

佐藤宣践

 (1664191)

東海大学付属相模高校は
15000坪の広大な敷地に専用の陸上競技場や野球場、武道館などを持ち
人格、人道主義に基づく教育とスポーツクラブ活動に力を入れていた
山下泰裕は
東海大学の教職員アパートに入居して新生活をスタートさせた
東海大相模高での練習は週1回
残り5日間は東海大学での練習に参加し佐藤宣践先生の指導を受けることになった

佐藤宣践は
東海大柔道部監督でありながら
現役選手であり
その年の全日本チャンピオンでもあった
東海大の練習は九州時代よりも質・量とも格段だった
山下泰裕には基礎体力と寝技の強化が課せられ
きつい無我夢中の日々を送った
転校1カ月後の9月、
東海大柔道部のヨーロッパ遠征があり
大学生に混じって高校生でただ1人参加
ソ連、東ドイツ、デンマーク、フランスを23日間かけて転戦
13戦を全勝した

全日本選手権

「高1で高校チャンピオン、高3で全日本出場」
という中学校から掲げていた目標のうち
まだ果たせていなかったのが「全日本柔道選手権大会への出場」だった
高校3年生になったばかりの4月
神奈川県予選をトップ通過、関東地区予選も突破し全日本への出場権を獲得し宿題を果たした
体重無差別で日本一を争う全日本選手権は
「オリンピックで金メダルを取るより全日本を制する方が難しい」
ともいわれるほど柔道を志す者にとって最大の舞台の1つ
佐藤宣践も前年の覇者として推薦枠で出場
「師弟同時出場」として話題になった
試合は日本武道館に13000の観衆を集めて開かれ
山下泰裕は
1回戦不戦勝
2回戦、3回戦、準々決勝をすべて1本勝ち
準決勝の相手は旭化成の上村春樹
開始早々、組み際に左大内刈りをくらって尻もちをついた
(有効)
その後、猛然と反撃したが上村を崩せず
初出場の全日本選手権は3位に終わった
佐藤宣践は
3回戦で破れ
現役を引退し指導者に専念することになる

4強

 (1664209)

日本の柔道の重量級は
上村春樹、遠藤純男、高木長之助、二宮和弘が「4強」といわれた
山下泰裕は
東海大学体育学部武道科に進学した
この年の全日本柔道選手権は
モントリオールオリンピックの予選も兼ねていた
山下泰裕は
1回戦、2回戦を「有効」を奪って勝ち上がり
準々決勝で前年敗れた上村春樹とぶつかった
開始5秒、
上村の左小内刈りで体勢を崩し「有効」をとられ
またしても負けた
そして1ヵ月後に行われたモントリオールオリンピック最終選考会(全日本選抜体重別選手権)でも
遠藤純男に「効果」をとられて負けた
山下泰裕は生涯で16回負けたが
このうち上村に4回、遠藤に4回、二宮に2回、高木に1回と4強に11回も負けている

史上最年少で柔道日本一

 (1664222)

大学1年のとき
全日本学生体重別選手権で優勝し
(史上初の1年生チャンピオン)
次の目標は全日本選手権の優勝だった
3度目の全日本選手権は
1回戦、2回戦、3回戦、準々決勝をすべて1本勝ち
準決勝で高木長之助を破り4強の一角を崩した
決勝はやはり4強の1人、遠藤純男
一進一退の攻防は決着がつかないまま試合は終了
副審の旗は赤、白にわかれ
主審の手はサッと山下に上がった
19歳10ヶ月、史上最年少の日本チャンピオンの誕生だった
(以後、8連覇)
この後、
全日本選抜体重別選手権でも初優勝
世界選手権の代表にも選ばれた

最後の敗北

 (1664214)

全日本選手権、全日本選抜体重別選手権というで2大タイトルを制した後
学生日本一を決める全日本学生体重別選手権に出場
決勝の相手は吉岡剛だった
高校時代に初黒星を喫した因縁の相手だが
前年の試合では勝っていた
しかし判定で敗れた
「日本チャンピオン、山下敗れる」
翌日の新聞にそんな見出しが躍った
「俺は日本一だ、さあ来いという気持ちが
受けて立つという受けの姿勢になり敗北につながった
大事なことは力を出し切ること
挑む柔道、攻める柔道、1本をとる柔道に徹するべきだった」
そして山下泰裕はここから203連勝する

山下時代

大学3年で
上村春樹、高木長之助を破り全日本柔道選手権大会2連覇
その後の全日本選抜体重別選手権でも勝ち、
嘉納治五郎杯国際柔道大会でも勝った
大学4年になり
柔道部の主将となった
そして全日本選手権では
決勝まで5試合すべてに1本勝ち
要した時間は17分で3連覇
パリで行われた世界選手権でも、+95kgで初優勝した
(以後3連覇)
数ヵ月後のモスクワオリンピックでの金メダルが期待された

モスクワオリンピック

ソ連が隣国アフガニスタンへ侵攻
これを批判するアメリカのカーター大統領の演説が報道され
なにかにわかに怪しくなってきた
そして再びカーター大統領は
ソ連が1ヶ月以内に撤退しなければモスクワオリンピックは参加すべきではないと
事実上のボイコットを表明し各国に同調を求めた
IOC(国際オリンピック委員会)は
カーター声明をオリンピックの基本精神に対する挑戦として拒否
モスクワオリンピックを予定通り開くことを決め
参加の有無は各国オリンピック委員会の判断に委ねられた
IJF(国際柔道連盟)も参加を決定
残るは日本が参加するかどうかだけだった

「選手の率直な気持ちを話そうではないか」
と佐藤宣践が呼び掛け
日本体育協会(東京・岸記念体育会館)に
各競技団体のオリンピック候補選手とコーチが集った
そして山下泰裕が口火を切った
「小学校1年の時、東京オリンピックをテレビにかじりついてみました
あの時、将来頑張ってオリンピックに出るんだと誓い、今日まで励んできたのです」
「今までやってきたことは何になるのか…」
選手は涙ながらに参加を訴えた
しかし
世論調査では
日本選手がモスクワオリンピックに
「行くべき」が55%、
「行くべきでない」が45%
という反応だった
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