山下泰裕 ippon! 最強最高の柔道家 
2016年11月25日 更新

山下泰裕 ippon! 最強最高の柔道家 

全日本選手権9連覇、世界選手権3連覇、528勝16敗15分、203連勝、外国人選手には1度も負けなかった。

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オリンピック不参加に泣かされる

モスクワオリンピックへの参加申請締め切りが迫る中、
JOC(日本オリンピック委員会)の最終決定は延び延びになっていた
そんな中で山下泰裕は
モスクワオリンピックの最終選考会を兼ねた全日本選抜体重別選手権に出場するため
福岡に入った
翌日、早朝、
新聞記者の電話で起こされた
前夜、日本体育協会とJOCがオリンピック不参加で合意に達したという
そのときは寝ぼけ頭でよくわからなかったが
朝食をとりにきたロビーで「モスクワ五輪不参加決定」の新聞の見出しをみてぼうぜんとなった
朝食を食べる気がなくなり
部屋に戻りベッドの上で毛布をかぶって泣いた
怒り、悲しみ、無念さ
涙があふれ出て止まらなかった
オリンピック不参加決定の翌日
その代表を決める皮肉な体重別選手権が行われた
選手たちはどこか気抜けしていた
+95kgは4選手によるリーグ戦で
山下泰裕は2勝した後
4強の1人、遠藤純男と対戦
遠藤が捨て身のカニ挟みをかけると
「ボキッ」
と音がして山下泰裕はその場に倒れた
そのまま救急車で市内の病院に運ばれた
試合は「痛み分け」となり
2勝していた山下泰裕が優勝した
病院の診断は
左足くるぶし上の外側・腓骨骨折
全治3ヶ月
救急車の中で山下泰裕は痛みを全く感じていなかった
病院に運ばれてからもベッドの上で歌を歌っていたという
おそらく放心状態だったのだろう
山下泰裕は
日本がモスクワオリンピックをボイコットしたことに今でも納得していない
アメリカでは
カーター大統領はホワイトハウスに代表選手を招待して
ボイコット決定を説明し納得してほしいと訴え
順にテーブルを回って不満の声に耳を傾けたという
日本では
「認定証」が発行されただけで
政府やJOCからはひと言の説明もなかった

闘志を失う

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その後、山下泰裕は
全日本選手権を5連覇
オランダで行われた世界選手権で
10試合をオール1本勝ちし+95kgと無差別で2階級制覇
帰国後は大学院の修士論文に打ち込んだ
テーマは「著名な中学・高校柔道指導者の心理特性」
全国の指導者を訪ね歩き
面接調査を重ねて論文をまとめた
このころは指導や大学院の授業ばかり気にかかり
自分の柔道に対しては以前のように情熱を持てなくなっていた
全日本選手権で6連覇したときも、ついに燃えないままだった
4強といわれた先輩は畳を去り
勝利を積み重ねていくうち
いつの間にか現状に満足してしまっていた

斉藤仁

「先生、燃えなくなりました
何故ですか?」
山下泰裕は佐藤宣践に悩みを打ち明けた
「自分で考えよ」
佐藤は答えずに逆に課題を与えた
「解答は出たか?」
1ヵ月後、佐藤が尋ねると山下は答えた
「修理論文が忙しく柔道に打ち込んでいないので燃えなくなったと思います」
「お前、のぼせているのではないか!」
「どうしてですか?」
佐藤には心当たりがあった
それは少し前、「浮き技」という技の練習をすすめたとき
山下は
「腰が硬いからできない」
と試しもせずに断った
佐藤はそのことを話し
「山下、お前はすでに俺を抜いている
従ってお前の燃えない気持ちに対し俺は想像でいうしかないが
俺はお前にこの技(浮き技)が必要だと考えアドバイスした
力は有限、技は無限である
しかしお前は自分で試しもせずに断った
この姿勢がのぼせあがっているというのだ
今のお前は斉藤に1本勝ちすらできないではないか」
山下はムッとした顔つきで聞いていたが
しばらくすると黙々と捨て身技に取り組み始めた
山下泰裕が東海大学4年生のとき
そして斎藤仁が国士舘大学1年生のとき
2人は全日本学生選手権決勝で初対戦した
それ以降も山下は負けていなかった
斎藤は「打倒!山下先輩」を目標に励んだ
全日本の合宿などでは
山下のところへいき頭を下げ乱取り(スパーリング)を申し込んだ
山下は斉藤をわざと目立つ所へ連れていき思い切り投げ飛ばし押さえつけた
しかし斉藤はめげずに何度も山下の胸を借りにいった
大きな目標、勝利のために・・・

オレの方が強い

そしてモスクワ世界選手権で
山下は+95kg、斎藤は無差別級で世界王者になった
世間は「2人の世界チャンピオン」を並びたたえたが
山下には「自分のほうが強い」という意地と誇りがあった
加齢による体力の低下に
たくさんのトレーニングと練習で抗い
全日本選手権の決勝で斎藤を破り8連覇を達成した

ロサンゼルスオリンピック

1984年8月、
ロサンゼルスオリンピックが開幕した
柔道代表チームは
6~7月
名古屋、天理、大阪、延岡、福岡と地方合宿で徹底的にしぼられた
日本選手団は18競技231人
山下泰裕は
日本選手団の主将に選ばれ
旗手にも名前が挙がったが辞退し
開会式にも参加しなかった
柔道チームの入場行進不参加には強い批判の声もあがった
しかし通常、外国で試合する場合、
4日前に現地入りするのがベストとされていた
例えば
無差別級の山下は
開会式に参加すれば試合日まで約3週間も間隔が空いてしまう
この間ベストの状態を維持し続けるのは困難だったため遅れて参加するしかなかった

厳しい戦い

柔道競技は
-60kgで細川伸二が金メダル
-65kgで松岡義之も金メダル
と出だしは快調だったが
その後
-71kgで中西英敏が5位
-78kgで高野裕光が5位
-86kgで野瀬清喜が3位
-95kgで三原正人が7位
と厳しい戦いが続いた

「先輩、行ってきます」

+95kgに出場する斉藤仁は
選手村を出発する前に山下の部屋を訪ねていった
「先輩、行ってきます」
そして結果は金メダルだった
いよいよ無差別級の山下泰裕の登場となった

ケガで絶体絶命

8月11日14時、
山下泰裕は
会場のカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校(UCLA)に入った
無差別級の出場者は15人
1回戦、
コーリー(セネガル)に27秒で1本勝ち
2回戦、
西ドイツシュナーベルの背負い投げを潰し
寝技で1本勝ちした
試合後、場内にどよめきが起こった
畳を歩く山下泰裕が右足をひきずっているのだ
本人は周囲に悟られないようにいつもと変わりなく歩いたつもりだったが
観客にも異常がはっきりわかるほど足をひきずっていた
シュナーベルに内股をかけたとき右ふくらはぎを肉離れさせてしまっていた
準決勝の相手は身長193cmのデルコロンボ(フランス)
準決勝では
フランスのデルコロンボの大外刈りで
山下の右足は支えきれず「効果」のポイントをとられた
日本中が
「山下が負ける!!」
と思ったが
山下は痛む右足に体重を乗せて大内刈りで「技あり」をとり
そのまま寝技で1本勝ちした
決勝戦の相手は
エジプトの巨漢、ラシュワンだった
控え室で山下は右足を冷やしていたのだが
大きな控え室で
同じ部屋にエジプトチームもいた
エジプトチームの監督は
7年も現地で柔道を指導している山本信明だった
山本はラシュワンを含む選手たちを他の部屋に連れ出した
重苦しい空気に包まれた控室で佐藤宣践は
「いいか
寝技に持ち込んで勝負しろ」
と指示しこう続けた
「なあ泰裕
この試合で俺とお前の師弟関係は最後にしよう」
(これまで習ってきたことのすべてを出し尽くそう)
山下はそう心に誓い試合場へ向かった
試合開始まで約20分
山下は控席に座って目を閉じていた
ラシュワンは
やってきて鼻息荒くウオーミングアップを始めた
ラシュワンから強烈な意気込みが伝わってきた
「これはやばい」
山下は本能的に目を開けラシュワンの顔をみる
ラシュワンもその視線に気づいた
山下が無意識にニッコリ笑うとラシュワンもニッコリと笑い返した
「よし!これでいける」
山下はそう直感した
ラシュワンのみなぎる闘志がスッーと抜けたように感じた
「ハジメ」
試合が始まり
ラシュワンは右、今度は左と払い腰をかけた
山下は無意識に体を開いてこれをかわしてすかすと
ラシュワンの巨体が崩れ
山下は横四方固めの体勢に入った
必死で抵抗するラシュワンから足を抜いた
「オサエコミ」
主審の声が会場に響いた
そしてときがきた
「イッポン」

ラシュワン

試合後、
ラシュワンに対して
右足をケガしていた山下に対する戦い方について記者団から質問が浴びせられた
「あなたはなぜあんな戦い方をしたんだ
右足を攻めていればあなたがチャンピオンになれたんじゃないか」
「私はアラブ人である
私にはアラブ人としての誇りがある
そんな卑怯なことはできない」
拍手が沸き起こったという
その談話が世界の新聞に大きく取り上げられ
ラシュワンには後日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)からフェアプレー賞が贈られた
ただラシュワンは試合開始早々、山下の右足を狙った払い腰をかけている
右足を警戒させておいて本命は反対の左足を狙う作戦だった
しかし山下がその技をすかして空振りさせすかさず押さえ込んで勝った
通常、足をケガした相手は
前後左右に激しく動かし
隅から隅まで引きずり回せば相手のダメージは大きくなる
ラシュワンはそうした方法を選択しなかったし、ケガした山下に情けもかけなかった
つまりあの試合でラシュワンは足のケガなど関係なく
いつも通り真っ正面から正々堂々と戦いを挑んだ
これこそ本当の意味でのフェアプレーではないだろうか

引退

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ロサンゼルス五輪終えてしばらくたったころ
山下泰裕は東海大柔道部総監督である佐藤宣践先生に引退の意志を打ち明けた
オリンピックで金メダルを獲得し栄光の絶頂の中で引退する選択肢もあったが
斎藤仁がいた
勝ち逃げするわけにはいかない
山下は1985年の全日本選手権を最後の大会と決めた
ただオリンピックから帰ってくると取材や講演、イベントなどでスケジュールが埋まり
全くトレーニングや練習ができなかった
祝賀会で喜んでくれるのはありがたいが
そのためにトレーニングも満足にできない毎日はもどかしく悲しかった
祝賀会場でみせた涙は
感激の涙などではなく実は悔し涙だった
そんなトンネルを抜け
やっと明かりがみえたのは
大学で指導する学生たちだった
彼らは山下のために尽くした
「たとえ負けたとしても恥ずかしいことではない
ひたむきに戦う姿をみせ、学生に何かを感じてもらいたい」
大会まで約2週間、
ギリギリの調整で何とか間に合った
全日本選手権の決勝は予想通り斎藤仁だった
結果は斎藤がガッツポーズをするほどの僅差だったが、
山下が9連覇した
大会後、
4日間帰郷した
そのうち1日だけ居留守を使って実家の自室に閉じこもり
1人でじっくりと引退のことを考えた
心のどこからも闘争心は燃え上がらなかった
山下は
どうしたら自分の柔道をパーフェクトにできるか
そのことだけに全精力を集中し
攻めの柔道に徹することを心掛けた
そして
全日本選手権9連覇
世界選手権3連覇
通算559戦528勝16敗15分
勝率9割7分2厘
203連勝
外国人選手には1度も負けなかった
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