斉藤仁 鬼の指導者時代
2021年11月26日 更新

斉藤仁 鬼の指導者時代

「理不尽、イソジン、斉藤ジン」(篠原信一)「いい意味で異常」(井上康正)「次元の違う怖さ、鬼以外のなにものでもない」(鈴木桂治)「オリンピックのプレッシャーなんて斉藤先生のプレッシャーに比べたら屁のツッパリにもなりません」(石井慧) オリンピックメダリストたちに恐れられた斉藤仁の記録。

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斉藤仁は、1988年にソウルオリンピックで金メダルを獲得すると、1989年3月に現役を引退。
それまで国士舘大学の体育学部の助手という肩書きで柔道部で練習していたが、引退後は柔道部監督に就任。
大学の授業では
「筋肉は使わないと弱くなりますが、使いすぎるても弱くなります」
とバランスを重視した科学的なトレーニングを教えていたが、柔道部では一切の妥協を許さず、あまりの怖さと厳しさに音を上げる選手も多かった。
そして監督になって最初の全日本学生選手権は初戦敗退。
以後も自身の現役時代の練習法をそのまま学生達に叩き込んで鍛え上げようとしたが、思いのほか結果に結びつかなかった。
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1992年、バルセロナオリンピックが終わった後、山下康裕が全日本代表の監督になると斉藤仁は重量級のコーチに就任。
山下康裕には明るくクリーンなイメージ、そして過去にとらわれず新しいことを導入する柔軟さやチャレンジ精神があった。
一方、山下康裕にずっと挑み続けた斉藤仁は、1984年のロスオリンピックでは無敵の強さで優勝した。
しかしそこからソウルオリンピックまでの4年間は地獄をみた。
肘と膝に大きなケガを負って、それまでのような柔道ができなくなったが、それでもなんとか勝つために、相手をよく観察し、寝技に持ち込んだりした。
豪快さは失ったが柔道家としても幅が広がった。
その苦しくてつらい経験によって人間としても大きく、指導者になった後も名選手にありがちなおごりがなかった。
苦労人の斉藤仁は、
「柔道とは何か」
ということを身にしみて理解していた。
だから若い選手に正しい柔道を指導し、世界に示すことが期待された。
実際、あるとき国際大会で、日本人選手が豪快な投げで1本勝ちした後、喜びのあまりなのか、寝転んだままなかなか起き上がらないことがあった。
すると斉藤仁は
「何やってるんだ!
立て!」
と猛然と怒り出した。
「なんで怒ったんだ?」
「見事な1本勝ちなのに・・・」
理解できない外国人の関係者に、斉藤仁は
「1本勝ちしたからといって寝転んでいたら相手に失礼です」
といった。
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柔道は「礼に始まり礼に終わる」
試合は礼が終わるまで続いているというのである。
柔道はJUDOが進化すると、日本柔道は世界に目を向けざる得なくなった。
そしてプラスと思われることは受け入れ、共に進化してきた。
しかし同時に
「柔道はJUDOになってはいけない」
という意識が潜在的にあった。
組んで-投げて-抑え込むが流れるように行われる柔道。
豪快な投げで1本をとる柔道。
そして「精力善用」「礼に始まり礼に終わる」という精神。
「失ってはいけないものがある」
日本柔道にはそんな独特の意識と使命感があった。
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後に斉藤仁と結婚する三恵子さんは、パリに住みながらフランスの航空会社の客室乗務員をしていた。
1993年、日本へ向かうフライトに乗務したとき、フランス遠征から帰国する柔道日本代表チームと乗り合わせたが、山下康裕監督や重量級担当コーチの斉藤仁をみても誰かわからず、
「体の大きい人だな」
と思っていた。
しかしフランスは柔道大国。
柔道ファンの男性乗務員に
「彼らは柔道の世界チャンピオンだよ」
に教えてもらった。
そしてその男性乗務員に
「通訳してくれ」
と頼まれたのが斉藤仁とのファーストコンタクトとなった。
この少し後、日本からパリへ向かう便に乗務したとき、偶然、柔道日本代表が乗っていて
「パリで試合をするのでよかったら皆さんでみにきてください」
と斉藤仁に誘われ、フランス国際柔道大会を観戦した後、日本代表と一緒に食事。
斉藤仁は熊のような体でタオルで汗を拭きながら話していたが、その素朴な人柄に好感を持ち、以後、日本代表がヨーロッパに来る度に試合を観にいき、やがて交際が始まった。
4年後、36歳の斉藤仁は、4年の交際を経て三恵子さんと結婚。
三恵子さんは結婚後、しばらく日仏を往復品しながらパリで仕事を続けていたが、妊娠を機に東京に住むことにした。
世田谷の家で斉藤仁はヨレヨレのジャージで外出し、車はコンパクトカー。
うわべはまったく気にしていない様子も三恵子さんのお気に入りだった。
「裏を返せば自分に自信があったということ。
俺が勝負しているのはそこじゃない。
大切なものは心の中にあるんだ。
ほかのことはどうでもいい。
そんな信念を秘めている人でした。
そこに私は惹かれたのです」
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1999年、斉藤仁が監督になって10年後、国士舘大学が初めて日本一となった。
このとき国士舘高校3年生時にインターハイ100kg級で優勝した鈴木桂治は1年生。
高校時代から大学生が道場に来て稽古をつけてもらっていたが、そのとき斉藤仁も来ていてその厳しさをみて大学には行きたくないと思っていた。
「なんというか、次元の違う怖さなんです」
(鈴木桂治)
国士舘大学に進み、実際に指導を受けるようになると、その柔道のレベルの高さに驚いた。
斉藤仁は「もっと走れ」とか「もっとウエイトトレーニングをしろ」などトレーニングに関してはあまりうるさくいわない。
ひたすらいうのは技術的なことで、その技術は決して大学生が覚えられるようなものではなかったが、とにかく1つのことができるまでトコトン反復させられた。
例えば、背負い投げでも1つの投げ方だけでなく、少し変化させた多くの種類があり、そのすべてをやらされる。
1つできれば
「じゃあ、次はこれやってみろ」
とドンドン課題が与えられるが、途中で間違えると
「そんなんじゃねえ!」
と怒鳴られる。
斉藤仁に
「あと、膝をこれだけ曲げてみて」
といわれ、斉藤仁の足が太すぎて、これだけがどれだけかわからず感覚的に曲げる。
1回でドンピシャになることは少なく、5回、6回と曲げて、ようやく
「おお、そこ」
となる。
そして指示通りに身体を使うと投げやすくなったり相手が軽く感じられるという。
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その身体の動きを覚えるために同じことを何万回とやらされることもあった。
それは「何回やればOK」「ここまでやればOK」ではなく、斉藤仁が「終わり」というまでやり続けなければならない。
16時に練習が始まり、与えられた課題ができなければ21時まで延々やらされる。
通常なら練習が終わると
「続きはまた明日」
となって寮に帰るが、たまに22時の寮の点呼のときに
「柔道着を持って来て」
とマネージャーから呼び出しがかかり、道場にいくと斉藤仁がいて、27時近くまで練習することもあった。
27時近くまでというのは「27時を過ぎると朝練はナシ」というルールがあったため、斉藤仁は26時55分になると
「よしっ、今日はここまで。
続きはまた明日」
といった。
その後、フラフラになった部員は授業で寝た。
「稽古というより修行という感じでした。
千日回峰行をTVでみたりすると、その修行僧の気持ちがわかる気がしますから」
(鈴木桂治)
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基本的に斉藤仁と部員に間に、フレンドリーなコミュニケーションはなかった。
部員は返事、そして実行あるのみ。
たとえ一緒に食事をしても、緊張で味わうことができない。
斉藤仁はとにかくたくさん食べさせようと大量に注文した。
それが行きつけの店ならキャベツを何個も千切りしてもらって
「お前ら、残すなよ」
といって食べさせた。
部員にしてみれば練習の延長のようだった。
「斉藤先生に会った人はよく「優しいですね」といいますが、そんな先生をみたことがない。
柔道部員がみていたのは、私たちは「歌舞いている」といっていたのですが、怒りのあまり歌舞伎の隈取ろをしたような顔になった斉藤先生ばかりだったのです。
本当に鬼以外のなにものでもない」
(鈴木桂治)

疑惑の判定 篠原信一 VS ダビド・ドゥイエ (2000`シドニー五輪)

2000年、シドニーオリンピックの100kg超級で篠原信一は順当に勝ち上がった。
中学生の頃からタバコを吸っている篠原信一は、試合と試合の合間に控室を抜けて一服していて、斎藤仁は注意した。
「篠原、今日は吸いすぎるなよ。
何本吸ったんだ?」
「あんまり吸ってないですよ。
5本です」
「吸いすぎだろ!」
篠原信一は、準決勝でトメノフ(ロシア)に大外刈で逆転勝ち。
決勝戦の相手は、ドゥイエ(フランス)
バルセロナ銅メダリスト、アトランタ金メダリスト、そして1997年の世界選手権の決勝で篠原信一を敗っている(不可解な判定で反則勝ち)選手。
一方、篠原信一もドゥイエに敗れた以来、7年間無敗だった。
1分30秒、ドゥイエが帯をつかんで内股。
篠原信一は跳ね上がってくる脚をすかして、相手の上半身を捻って投げる「内股すかし」
ドゥイエの体は空中を舞った後、背中から畳に落ちた。
篠原信一も投げた勢いで肩から畳に落ちたが、しっかりと投げた手応えがあり
(勝った!)
と思わずガッツポーズ!
勝ち名乗りを受け、礼をするために中央に戻ろうとしたとき、主審の
「有効」
の判定が目に入った。
(エッ!なんで有効なん?)
わけがわからないまま
「はじめ」
のコールがかかって試合再開。
頭の中には
(今のは絶対に1本やった)
という思いがずっとあった。
「待て」
がかかったとき、斎藤仁は叫んだ。
「信一、お前(ポイントを)取られているぞ!」
1本でなかった上、有効のポイントはドゥイエに与えられていた。
(なんでやねん!)
試合は続いたが、篠原信一の心の中は疑念でいっぱいで集中することができない。
「信一、攻めろ!」
斎藤仁は大声で叫んだ。
篠原信一はがむしゃらに攻めたが、なかなか組ませてもらえなず、やがてドゥイエに
「注意!」
が与えられた。
「有効」と「注意」はポイントとしては等しいが、このまま判定になれば、投げてとった「有効」より「注意」は不利。
(ヤバい、このままでは負ける)
焦る篠原信一は、組もうとして逃げられ、技をかけてかわさを続けた。
残り1分、強引に繰り出した内股を返され
「有効」
と逆にポイントを奪われた。
試合終了のブザーが鳴り、ドゥイエが判定勝ち。
山下泰裕は両手を広げて審判団に詰め寄った。
斉藤仁は畳を降りようとする篠原信一を押しとどめた。
しかし判定は覆らなかった。
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2000年、シドニーオリンピックの後、斉藤仁は全日本代表監督に就任。
(山下康裕は全柔連の男子強化部長)
「日本代表という集団は柔道家のトップ中のトップ。
練習は誰よりも量をこなし誰よりも質を求めなくてはいけない」
という斉藤仁が監督になると全日本の合宿は、

・早朝トレーニング
・午前
・午後
・夜

の4部制となり、量も内容もハードになった。
その妥協を許さない厳しい稽古のやり方に、篠原信一は
「理不尽、イソジン、斉藤ジン」
井上康生は
「いい意味で異常」
と悪口をいっていたが、斎藤仁はそれを知ると嬉しそうに怒った。
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また組手の練習として、夜の道場で電気をつけず真っ暗闇の中でやったり、軍手をつけて稽古したり、自衛隊に体験入隊したり、独特の練習もあった。
自衛隊では、80mほどの高さに張った網の上で腕立て伏せをやったり、10mの高さからワイヤーをつけて降下訓練。
選手たちは
「何の意味があるんだ」
「普通じゃない」
と思いながら、ほふく前進で泥だらけになった。
自らを
「段取りくん」
と称し、
「リーダーは細かくなくてはダメ」
という斎藤仁は、選手たちが金メダルを獲るためにはどういう環境をつくればいいのか真剣に考え、準備など細部まで気を配った。
その姿をみた井上康生は、斎藤仁の異常さは、
「柔道に対する異常なほど深い愛」
であると理解した。
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