1978年11月10日に2ndアルバム『動乱(獣を野に放て) (Give 'Em Enough Rope)』を発売。
ライターのデヴィッド・マクローチが「波打つ重金属 (swash-buckled heavy-metal)」と称し、「前回のLP以来最高のLPだ。個人的には過去に録音されたすべてのレコードを超えると思う」と絶賛しました。
その後、クラッシュは音楽性の幅を広げ、他のパンクバンドとは一線を画した作品をリリースすることになる。1979年12月14日に3rdアルバム『ロンドン・コーリング』ではアメリカでも広く知られるようになり、今までパンクをこき下ろしてきたイギリスの音楽批評誌にも絶賛されることとなる。
直球勝負のパンク・ロックは鳴りを潜め、幅広い音楽スタイルを盛り込んだ作品です。
アルバム「ロンドン・コーリング」のジャケット写真、ポール・シムノンが自らのベースを叩き壊しています紛れもなくパンクの象徴となったショット
1980年12月12日に4thアルバム(3枚組の意欲作)『サンディニスタ!』を発売。本国だけではなくアメリカでも次代を担うバンドの一つとしての評価を確立しました。
このアルバムで「ストラマー/ジョーンズ」だった作者クレジットがはじめて「ザ・クラッシュ」になりました。そして4人全員がリード・ボーカルを執った唯一の作品です。
しかし、バンド結成の立て役者でありながら一度は解雇されたバーニー・ローズがマネージャーの座に復帰したのを契機に、メンバー間の関係性にヒビが入りはじめました。
当時のミック・ジョーンズの解散では・・・。
ジョーとポールが待っていた。「俺たちはお前にやめて欲しいんだ」とジョーが口火を切る。「お前はどうなんだ」とミックはポールを振り返った。「俺もだ。やめてくれ」とポール。ミックは僕に語ってくれた。「俺はギターをケースに入れて、抱きかかえて出て行ったんだ」。バーニー・ローズが彼を追いかけ小切手を持たせたそうだ。「退職者に金時計を、ってわけさ」
ツアーは成功だったが、レコードは売れなかった。『アースクエイク・ウェザー』の売り上げは全世界でわずか7000枚という寂しい数字で、映画のサントラだからという言い訳ができた『ウォーカー』の半分にも満たなかった。こうした悲惨な売れ行きは(略)大きな痛手となり、この失敗を一人で背負い込んだ彼は(略)失望しバンドを解散させてしまう。
(略)「面白かった。みんな腕のいいプレイヤーだったし。だけど俺は心の奥で、新しいものはもう作れないなとわかってたよ。だから解散させたんだ。みんなには感謝してる」。
ザ・クラッシュの出したアルバムはどれも素晴らしく、現在でも色褪せない曲が多いです。私的には、当時人気だったセックスピストルズよりザ・クラッシュの曲の方が楽しめ聴くことができ、音や歌詞のセンスもあると思っています。有名になった事でバンド内で色々とありましたが、最強のメンバーが終結した最高のバンドです。
ザ・クラッシュが日本で来日公演をしていた!!
初来日にして最後の来日となったクラッシュのライヴは'82年1月24日の渋谷公会堂を皮切りに、新宿厚生年金会館、中野サンプラザホールでの7公演プラス大阪での2公演が行われた。今では考えられない事だが、昼・夜2回公演をこなしたりもしている。2月1日、中野サンプラザでのライヴは当時NHKにてテレビ放送された。ジョーストラマーが『団結』、トッパーヒードンが『神風』と書かれたハチマキをまいていたのが、とても印象深く記憶されている。
via www.zoot-ss.net
The Clash - Live in Tokyo, Japan 1982 - full concert - YouTube
来日公演の映像です。
via youtu.be
ボーカルのジョー・ストラマーについて
「ジョーは周囲に取り巻きを必要としていて、いつも誰かの励ましがないとダメだったの。繊細だったのね。楽屋に入っても、ファンのために虚勢を張ってたわ。ジョー・ストラマーという別の人間になって、自分の中の不安を拭い去ってたのよ」
ジョーと身近で接していた誰もが、ジョーは自分に違和感を持っていたことに気付いている。何かしっくりこないことでもあるのか、ピリピリしたムードを漂わせたジョー。
(略)
「特に女性に対しては彼はすごく冷たかった。本当は優しくて思いやりがあるのに、変よね。女性に対しての態度は理解できなかったわ。利用するだけの存在っていうか。学生時代、自分が醜くて、女の子に相手にされないといつもコンプレックスを抱えてたのよ。バンドに入れば少しはマシになるかなってとこだったのね。私に2度ほどそんなことを言ってた。自分が女性から好かれてるって証明したくて、いいように利用してたのね。ジョーは毎晩、別の子を相手にしてたわ」
86年末母死去。さらにひきこもるジョー。
アースクエイク・ウェザー(89年発表)
デモを聴かせろと会社から言われてソングライターとしてのプライドが傷ついたり。
最新音楽事情を把握させようと優れた新作を周囲が聴かせようとすると。
ルー・リードの『ニューヨーク』は自信喪失したくないと断固拒否。
当時好んで聴いていたのはポール・サイモンの『グレイスランド』。
1999年に結成したバンド『ザ・メスカレロス』では、
。クラッシュ時代と同じく、ジョーはライヴが始まるまでの昼間はほとんど口を利かず、飴玉をなめてハーブ・ティーをすする。ライヴ前の気付け薬となるグラスー杯のブランデー以外は、ステージが終わるまでほとんど口にしない。サウンドチェックではジョーだけバンドを抜けて一人でプレイし、修正したい問題が生じたときだけバンドとチェックする。「僕たちが実際口を利くのはライヴが終わって、夜バスに戻ってからやっとだよ」とスコット。「本当に奇妙な関係さ。時々ジョーは親父みたいにどっしりして、時には悪魔、また時には理解できない人間になるんだ。ステージではいつもとんがっていて、次どうくるかわからなくて、冷や冷やさせる。最初バンドの中では緊張してたよ」。ラティーノ・ロカビリー・ウォーのときと同じく、ジョーは観客の見えないところで、手を背中に回してバンドに指示を出していた。合図を見逃したメンバーにはモノが飛んでくるのだ。