金本知憲 NeverGiveUp! 七転びアニキ!! 骨が折れても黙って試合に
2020年5月22日 更新

金本知憲 NeverGiveUp! 七転びアニキ!! 骨が折れても黙って試合に

壮絶!不屈!!鉄人!!! 超人!!!! 1492試合フルイニング出場(世界記録) 1766試 連続試合出場(世界記録) 1002打席連続無併殺打(日本記録) 475本塁打(歴代10位)

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頼れるアニキ

 (2190969)

2003年、
「プロ野球全体のことを考えて来い」
「俺とお前は一緒に歩むようになっている」
星野仙一監督に口説かれ阪神タイガースに移籍。
背番号は「6」
開幕から3番を任された。
かつて広島から巨人へFA移籍した川口和久や江藤智は広島市民球場で
「裏切りもの!」
と激しく野次られた。
金本知憲も野次られると覚悟していたが、阪神移籍後初の広島市民球場で逆に声援を受けた。
ストイックに野球に打ち込み、チームに献身的なプレーをしつつも自分の結果を残す。
「活躍できたのは裏方さんのおかげ」
ともらった賞金や賞品をスタッフにプレゼントし、若手選手やチームの裏方、記者と食事会を開く。
そんな金本知憲は「アニキ」と呼ばれるようになった。
阪神タイガースは18年ぶりにリーグ優勝。
ダイエーホークスとの日本シリーズで、金本知憲は3試合連続本塁打、1試合2本塁打、合計4本塁打を放った。
しかしチームは日本一にはなれなかった。
 (2190964)


2004年、新しく岡田彰布が監督に就任。
金本知憲は4番になった。
7月29日、中日ドラゴンズ戦で左手首にデッドボールを受け、試合後、「軟骨損傷」と診断された。
7月30日、巨人戦に強行出場。
自分のバットより軽い久慈照嘉のバットを借り、高橋尚成から右手だけで安打を放ち超人ぶりを発揮した。
8月1日、連続試合フルイニング出場の日本新記録を樹立。
2004年シーズンは、打率、本塁打、打点の3部門で自己最高記録を達成。
打点王を獲得。

守護神三瀬、金本に危険球で退場!! あわや乱闘

2005年6月2日、阪神タイガースとソフトバンクホークスとの交流戦で、金本知憲は三瀬幸司の投球を後頭部に受け、倒れた。
やがて味方に起こされたが、自力では歩くことができず抱えられながらベンチに戻った。
「連続出場記録が止まってしまう!」
球場は騒然となったが、金本知憲は何事もなかったようにベンチを出て1塁に向かった。
このシーズン、金本知憲は強打者の証といわれる1000打点を記録。
打率3.27
ホームラン40本
打点125
と自己記録をすべて塗り替え、阪神タイガースの4番としてチームの2年ぶりリーグ優勝の貢献した。
しかし日本シリーズでは4連敗を喫した。
6月10日、北海道日本ハムファイターズ戦で入来祐作から本塁打を放ち史上4人目の全球団から本塁打を達成。
8月11日、中日戦では1,000試合連続出場。
8月25日、広島戦で1,000得点。
9月9日、広島戦で1,000打点。
打率・本塁打・打点の3部門で前年の自己記録を更新。
チームもリーグ優勝。
しかし千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは、ヒットが1本しか打てず、チームも4連敗し負けた。

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2006年1月1日、元日、毎年恒例のトレーニング初めが「アスリート」で行われた。
高重量のバーベルやダンベルを使うウエイトトレーニングは、インターバルで動けなくなることもあるほどハードなものだった。
「(トレーニングは)しょっちゅうやめたいと思います。
でもやっぱり現役っていうのは今しかないんで。
遊ぶのはやめてからいくらでもできるしね。
現役って今しかできないからちゃんとできることはやっとかないと」
1月5日、鹿児島県の最福寺での護摩行が行われた。
最福寺は、室町時代から修験者が肉体と精神に難行苦行を課し続ける真言密教の寺で、護摩行とは、木札をくべる火柱の前でお経を唱え続けるというもの。
行によって光、つまり内に秘めている精神を磨くことができるというが、多くは焼かれる熱さと痛さに後ずさりし、途中で耐え切れなくなかったり気を失ったりする。
しかし火だるま寸前になりつつもやり終えると得がたい充実感と出会うことができるという。
金本知憲は、ここに1999年から通い始めた。
「弱い自分とか打席で集中力が出ないときの自分の姿とかを想像しながら、そういうときにしっかり集中するというか、その目を鍛えようと思って。
力みすぎるのも自分の弱さだと思うし・・・
ツーアウト満塁、最終回1打同点とか、そういうところで、ああどうしようかっていうのも弱い自分だし、マイナス思考で考えるのも弱い自分だし・・・
だからそういうところを平常心で落ち着いて集中力を出せるようになりたいんで」
午前3時。
気温2度。
他の僧侶と共に僧衣をまとった金本知憲が手を合わせながら本堂に入り一礼。
「はい、吸うて」
大阿闍梨:池口観法主の声で、修行前の精神統一。
そして護摩行が始まった。
炎との距離は約1m。
木札が投げ入れられる度に炎は勢いを増していく。
前年まで1500枚だった木札は、金本知憲のリクエストで3000枚に増やされた。
熱気で汗が吹き出した顔に火の粉が容赦なく襲う。
しかし約90分、お経を唱え続けなくてはならない。
「誓い!
私は彼と我が生命を信じます。
意を高めしなやかに強く日々精神を鍛えて精進し光を我が熱き力として前進します。
我が生命のために。
すべての生命のために」
大阿闍梨の言葉で修行が終わったのは午前5時だった。
金本知憲の顔にはいくつもの火ぶくれができていたが、この修行を3日間行った。
「清原和博も同時期に護摩行を始めたのですが、彼は来なくなった。
金本はもう10年になります。
炎を気で押せるようになったので火傷することもありません。
このレベルにたどり着けるのは全修行者の1%。
プロともなればみな体は鍛えています。
あの子(金本知憲)以上の腕力を持つ選手もたくさんいます。
ただ彼は素直だった。
私を信じ切った。
清原が楽をせず修行を続けていたらどれだけすごい選手になったか。
だができなかった」
(池口観法主)
 (2192767)

2006年1月31日、阪神タイガースは沖縄でキャンプを行った。
38歳になる金本知憲はホテルの部屋の冷蔵庫に大量の砂糖入りの缶コーヒーを入れた。
甘いコーヒーを飲むと疲れがとれるという。
「ほんといやだよね。
もう希望が3割、憂鬱7割ですわ」
といいながら掲げたテーマは
「全力で打つ、投げる、走る」
だった。
全力で練習に励んだ結果、キャンプ半ばから調子を落としていった。
疲れで精彩を失い、バッティングもバランスが崩れボールが当たらなかった。
この後、オープン戦は出場せず調整を続けたが、オープン戦8試合目のヤクルト戦に出場。
3打席ノーヒットで4回裏で交代した。
結局、オープン戦20試合中9試合に出場し、打率は2割5分だった。
3月30日、開幕戦前日20時。
金本知憲は窓を鏡にしてホテルの部屋で素振りをしていた。
開幕に向けて最後の調整だった。
「誰よりも多くバットを振った者が勝つ」
信念だった。
そして開幕後、3戦目でホームランをレフトスタンドに突き刺し、4打数4安打3打点。
チームもシーズン初勝利を挙げた。
 (2191047)

4月9日、連続フルイニング出場の世界記録がかかる試合当日、金本知憲は笑顔をみせた。
「べつに普通通りですよ。
ほんと。
まったく変りなく。
昨日もなんもなかったし。
勝つこと最優先でケガを恐れず・・・
今日は恐れるかもしんないですね」
10時、大阪ドームへ移動。
14時、試合開始。
1回裏、ランナー1、3塁のチャンスで登場。
内野ゴロで全力疾走しダブルプレーを阻止し先制点につなげた。
3回裏、第2打席はフォアボール。
8回裏、三振。
10対5で阪神リードのまま9回表へ。
そして最後のバッターが三振に倒れ、、904試合連続フルイニング出場の世界新記録を達成。
大歓声を受け、それに応えながらも、心と体はすでに次の試合に出る準備を始めていた。
2006年シーズンオフの契約更改で推定年俸5億5,000万円。

人生初の手術 ケガとの戦い

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2007年7月8日、中日戦で1死満塁から金本知憲はヒットを打ったが、生還しなかった二塁走者の鳥谷敬に
「あのヒットで1人しか還ってこれないなんてもったいない」
と叱責。
シーズン中、左膝半月板損傷の大ケガを負いながら強行出場を続け、31本塁打95打点を記録したが打率は.265と4年ぶりに3割を下回った。
シーズンオフには左膝を治すために人生初の手術を受けた。
2008年1月、左膝のリハビリでアメリカに滞在し、2月後半の安芸キャンプからチームに合流。
4月12日、通算2,000本安打を達成(史上37人目)
5月13日、通算400本塁打を達成。
最終的に2年ぶりの3割、3年ぶりの100打点。
オフには再び左膝の手術を受けた。
2009年4月3日、41歳の誕生日に開幕戦本塁打。
4月8日と10日に3打席連続本塁打を放ち、史上初の月間2度の3打席連続本塁打。
4月は30打点を記録し月間MVP(4度目)に選出されたが、5月以降の月間打率はすべてて2割台前半。
最終的には打率.261、本塁打数も21本。
移籍後ワーストとなった。

強行出場 1492試合連続フルイニング出場 1766試合連続試合出場

 (2190915)

2010年3月17日、ヤクルトとのオープン戦前の練習中に藤川俊介と交錯し右肩棘上筋を部分断裂するも強行出場。
しかし送球は内野にも届かなかった。
4月14日、巨人戦で犠牲フライを本塁に返球できなかった。
シュートの鳥谷敬がレフトまで中継や守備のために走ったため、
「ショフト」
という新ポジション名や
「介護」
と揶揄された。
4月17日、横浜戦。
2死2塁の場面でレフト前に転がった打球を金本知憲がグラウンドに叩きつけるような悪送球。
カットに入ったショート:鳥谷敬にすら返球できない金本知憲にタイガースファンは容赦ない罵声が飛んだ
「引っ込め」
「何がフルイニングや!」
横浜の攻撃が終わりベンチに戻ってきた金本知憲に誰一人、声をかけようとしない。
察したキャッチャーの城島健司は笑顔でいった。
「カネさん、どこ投げてんですか!」
「スマン、スマン、やってもうたわ」
これでムードが一変し、ベンチは救われた。
結局、この試合で2塁走者の生還を2度許し、打率も1割6分7厘と落ち込んでいた。
4月18日、試合前に真弓明信監督に
「これ以上出てもチームに迷惑をかける」
と自らスタメン落ちを志願。
自ら連続フルイニング出場記録を1492試合(世界記録)でストップさせた。
それ以降、毎試合代打として出場。
連続試合出場記録を伸ばしていった。
完治していない状態で試合に出続ける金本知憲に温かい声援もあったが、
「真剣勝負ではない」
「個人の記録のためにチームが悪影響を受けている」
などという批判的な意見もあった。
2011年4月15日、中日戦、8回表2死1塁の場面で投手に代わって金本知憲は代打に立った。
この打席中、藤川俊介が盗塁を失敗。
打席未完了のままイニングが終了。
真弓明信監督は金本知憲に代え投手を出した。
こうして連続試合出場記録は1766試合で止まった。
この後も出場を続け通算10000打席(史上8人目)を達成した。
しかしこのシーズンの成績は、守備面でも補殺0, 打率(規定打席数未到達)、本塁打、打点、すべてで移籍後最低に終わった。

引退 不屈の虎の誇りは連続出場記録より連続無併殺打記録

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